チャブ屋(1)

チャブ屋
スポンサーリンク

さて、「チャブ屋」って言葉を知ってますか?
ストレートに言ってしまうと大抵は洋館造りで1Fが飲み&ダンス。2Fは宿泊できる私娼のお店って感じです。色々な書籍とかも詳しく書かれていなかったり難しくて理解するまで時間が掛かりました。なので、なるべく解りやすいように現在の地図と重ねて作ったので参考にしながら説明したいと思います。

「チャブ屋」誕生から消滅まで

1858年 – アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヶ国と通商条約を結び、神奈川(横浜)は、「江戸の方六郷川筋を限りとし、其他は各方へ十里」と決めた。

1859年 – 横浜が開港され、5ヶ国が今の関内(地図:外国人居留置)に住む。

1862年 – 生麦事件。薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した。

1863年 – 居留置の外国人を保護する為、今の山手の丘に イギリス軍(赤ラシャ隊)、フランス軍(青隊さん)が駐屯した。

akasenmap

【居留置の街並み】長崎大学附属図書館

1864年 – 米,英,仏,蘭の4ヵ国の公使と幕府との間で「横浜居留地覚書」が取り交わされた。その十一条に「外国人遊歩のための長さ四~五マイル、幅二0フィート以上の道路を根岸村を廻って造営し」とある。

1865年 – 外国人遊歩道(地図の赤ライン)が出来き幕府は、その沿道の民家13軒に外国人用の休憩場「茶屋」を開店させた。当初は、遊歩外人の行動を監視する目的もあった。また、外国人の海水浴が本牧十二天側で流行し「海の家」が建ちはじめる。しかし、そこから私娼が始まった。

①「茶屋」で酒や料理を始め女性が接待を行った延長。
②本牧十二天側の「海の家」が酒や料理を出し風俗営業。
※日本人の海水浴場は、1892年に初めて出来た。
※外国人の海水浴場(サマービーチ)は、明治後半に出来た。

但し、呼び名は「曖昧屋」や「もぐり屋」と言われてた。

【本牧十二天の茶屋】長崎大学附属図書館

【根岸の茶屋】長崎大学附属図書館

【不動坂の茶屋】長崎大学附属図書館

【元町百段上の茶屋】長崎大学附属図書館

1866年 – 「横浜居留置改造及競馬場墓地等約書」の締結により、翌年から外国人が山手・本牧に入居を開始した。
1877年 – 「茶屋(もぐり屋)」は、当初の13軒以外にも北方、本牧方面に30軒程度まで増えた。
1882年 – 密かに「もぐり屋」として営業してたが、この頃になると天徳寺下の水田(本牧宮原住宅3号棟近辺)を埋め立て、異国人相手の銘酒屋として春木屋が開業し、続いて小港(現本牧原)の大黒屋、北方(現小港)の大野屋と開業する。この三軒は、木造の洋館で外壁は白ペンキで塗られ、抱える女郎も和装、洋装と選べる様にしていた。私娼を公然として営業し「チャブ屋」と呼ばれる。メリケン波止場に来た外国船の船員をリキシャマン(人力車夫)が誘い、連れて行く仕組みも出来上がり成長した。

【メリケン波止場と人力車】長崎大学附属図書館

1887年 – 本牧30余軒、北方10余軒、地蔵坂・柏葉7余軒、元町10余軒。
1892年 – 上記以外に、中華街20余軒、横浜公園5余軒、関内10余軒、寿町付近10余軒、野毛付近10余軒、にまで散在した。
1899年 – 警察当局はチャブ屋に「ベット使用禁止」を命じた。しかし、チャブ屋は、大型のソファにして逃れた。
1911年 – 麦田のトンネルが開通し市電が本牧まで繋がる。
1919年 – 散在してる「チャブ屋」を警察当局は2ヶ所に集約した。

地図の、チャブ屋が、その場所である。

 「小港」26軒(女性約200人)で主な客は上級の船員や日本人。「大丸谷」16軒(女性約100人)で主な客は下級船員や外国人。

1923年 – 関東大震災で、遊郭が倒壊し営業終了。集約していなかった前田橋から山下町のチャブ屋も倒壊し本牧で再建する事になる。
1925年 – 本牧北方のチャブ屋第一次手入れ、6人を引致。

【昭和初期のチャブ屋の内部】

1938年 – 愛国婦人会、本牧ホテル班結成(200名)。
1941年 – 日本、対米英宣戦布告。
1943年 – 「小港ホテル組合」の名称を「山手旅館組合」と改名。
1943年 – 産業戦士憩いの家や戦時徴用工員寮等となり廃業になる。
1945年 – 横浜大空襲により全て焼失する。敗戦で焼け地接収される。
1945年 – 進駐軍は山下町の互楽荘アパートを慰安所として定めた。
1950年 – 憲兵司令部で小港周辺に慰安所を設置する相談後、現在の小港町3丁目、本牧町2丁目に42軒の「チャブ屋」が復活。

地図の、後チャブ屋が、その場所である。

 最盛期には約600人の女性が働いた。しかし、客は外国人のみで、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、エチオピア、フィリピン、ギリシャ、コロンビアなどの連合軍人だった。

【戦後チャブ屋の街並み】みんなでつくる横濱写真アルバム(終了)

1954年 – 日本経済も復興し「チャブ屋」は衰退していった。
1957年 – 「売春防止法」施行。
1958年 – 2月11日 本牧チャブ屋街(本牧ホテル業組合)24軒、3月31日限り風俗営業廃止。旅館としての再出発を決議。
3月13日 本牧ホテル業組合、廃業届を山手署に提出。

約100年を経て、「チャブ屋」は姿を消し去った・・・

「チャブ屋」の語源

横浜では食べることを「ちゃぶ」と言っていた。長崎でも食事することを「ちゃぶ」と言っており同じ開港した街として外国語からついたと考えられている。英語で「CHOP HOUS(チョップ・ハウス)」を簡易食堂の意味から、「チョップ=ちゃぶ」が食べる意味とされ「ハウス=屋」となり、「チャブ屋」と呼ばれたと言われる。また、卓袱台(ちゃぶだい)も同様に食事する台となる。いずれにしても、最初に使い出したのは、リキシャマン(人力車夫)であるとされ、外国人から「チョップ・ハウス」の言葉を聞き「茶屋(もぐり屋:私娼)」に連れて行ってたので「チャブ屋」の造語を明治の中頃に一般化させたと言われている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました