【解説】本牧神社

歴史
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本牧和田の新本牧公園奥に建っている本牧神社は、様々な歴史に遭遇している。改めて歴史を調査してみた。

参考:本牧神社公式ウェブサイトより

う~ん、ホームページやパンフレットを見ましたが正直、言葉が難しくて、ぼんやりとしか分かりません。
自己解釈していますので間違いあればご指摘下さい。

名前の由来

本牧神社は、旧称「本牧十二天社」と呼ばれていた。

本牧十二天社

伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。

1192年、源頼朝公が鎌倉幕府を開く際に、治安維持の部隊設置が成功するようお願いする為、平安時代からある本牧神社(旧:本牧十二天社)の神殿に、約180cm×約120cmの赤い漆塗りの神様を入れる箱(仏壇のような感じ)を奉納したとある。

また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。

鎌倉将軍や関東官領から土地をもらい、徳川家康からは関東に来た時から住民の減税が約束されたことによって、住民達からありがたがられました。

※寄進とは?:神社や寺院に金銭や物品を寄付すること。
※高十二石免御朱印の下知とは?:一石は大人一人が一年に食べる米の量であり、12人が1年間に食べる米の量を地域税金(納める米)から免除するので祭ごとに使って宜しいとのお達し。

徳川家康の関東入国は、1590年なので既に「本牧十二天社」と名前が付いていたが、何故12石だったのか?偶然にも神職・職員が12人が携わっていたのか?やはり、1像に1石を食べて頂くという洒落た配慮だったのだろう。

要するに「本牧神社は、古い歴史があり、偉い人から庶民まで幅広く愛されていました」という事です。

「弘長三年 (一二六三年) 正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日霊女命の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天 (日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大自在天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神) を神前に祀り、本体大日霊女命を深く秘したり (今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり) 」:別当寺の多聞院の由緒書

1263年、正月の朝、青い波間に白く輝く女神像(大日霊女命:オオヒルメノミコト)を現在の本牧十二天緑地(昔のお馬流しの海岸)で拾い地元の人達は、やしろを建て村のお守りとして奉った。その後、僧侶は神様・仏様にとらわれず(本地垂迹)12体の天像を祀ったのです。

改名の続きがあります・・・

本牧神社

一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日霊女命を祀って「本牧神社」と改称された。

1868年、明治政府は、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、「神仏分離令」を発した。十二体の天像は、仏説十二天という仏像だった為、他のお寺へ移動し由来だった女神像を残し、神道+仏教だった「本牧十二天社」から神道のみの「本牧神社」に改称されたのでした!

要するに「十二天像から”本牧十二天社”と命名し、神道と仏教の分離令で”本牧神社”と改称した」という事です。

1906年、明治政府により「近隣の中小神社は、当該地域の有力神社に合祀・統合せよ」という旨の「神社合祀令」が発令され、本牧地区に点在していた六社のお社の御神霊が、本牧神社に合祀され、境内に摂末社として祀られました。

・・・分離やら統合やら政府が絡むと、神社の宮司(責任者)さんも大変なんですね。そういう理由で、本牧神社の境内には多くの鳥居や神様が祀ってあるのです!

場所の移転

本牧神社は、本牧十二天1番地→本牧町2丁目 (仮遷座) →本牧和田19番地と移転している。

本牧十二天1番地時代

本牧岬(マンダリンブラフ)の先端にあり、大きな木に囲まれて鳥居の足元には海の波が寄せる素敵な場所でした。東京湾を行き来する船員からは航海安全の神様として、地元住民からは生業(漁場)の守護神として多くの人から愛されていました。しかし、太平洋戦争の大空襲によって境内の社殿や大樹の殆どが焼失し、終戦直後の1946年(昭和21年)進駐軍に強制接収されます。

▽すぐ側が海岸で、お馬流しが行われています。

▽接収され、タンクが設置されています。

▽米軍住宅のフェンス前を通るお馬流しの行列

▽今は、本牧十二天緑地として生まれ変わりました。

本牧町2丁目時代

「本牧町2丁目時代」
接収後、地元の人は「本牧神社興奉讃会」を結成、各町から十名の委員が出て、関音三が会長になります。復興予算450余万円、各町の人口割によって割り当てられ、拠出されました。新しい境内地には池田綱の所有地150坪(495.7平方メートル)を無償で借り受け、1954年(昭和29年)11月に仮遷座しました。そして今でも、10日、20日、30日は本牧1丁目東町内の大鳥小通学路で縁日が開かれ子供たちの楽しみとして継続されています。

▽50年近くの長い間、仮遷座していました。

▽現在も移転の案内看板が掲示されています。

▽今でも、月に3回の縁日が開かれています。

本牧和田の19番地:現在

1993年(平成5年) 米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、本牧神社の境内地は昔の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。

▽新本牧公園から見える大きな鳥居

▽立派な神殿、後ろは本牧山頂公園

▽新本牧公園で行われる「Summer Festival」

場所の移動を分かりやすくマップにしました。

【お馬流し】
また室町時代より連綿と受け継がれる「お馬流し」があります。この特徴的な神事を続けてきた本牧神社は、その故に厄除け・除災招福・方除け・家内安全・商売繁盛・事業繁栄・心願一切成就等の幅広い御神徳を景仰する多くの参拝者が足を運んでいます。

最後に

若い人は、本牧神社=本牧和田としか知らない人も多いかと思いますが、分かりやすくスマホでスイスイと画像付きで地元の歴史を少しでも知ってもらえると嬉しいです。説明文に難しい内容が多く、自分で理解する為に調べたのが本当の理由なんですけどね。

「本牧神社」をネットで検索すると、”寄付金横領事件”やら”宗教団体が買収”の記事が沢山出てきて残念な気持ちになりますが、神社は遠い昔から未来まで、住民の心の安らぎとしてずっと見守り愛され続けることを願います。

コメント

  1. Thank you very much.
    In addition, please come to visit.

  2. Forever より:

    A good many valabules you’ve given me.

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