神奈川奉行所跡と井伊直弼像

横浜の歴史散歩
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横浜市西区紅葉ヶ丘9(根岸線桜木町駅下車10分)

ガス灯のある本町小学校の前の道をさらに横浜方面に150mほど進むと急な坂にぶつかる。紅葉坂である。この坂を登りきった所にある神奈川文化センターの地は、かつて行政の中心地であった神奈川奉行所(かながわぶぎょうしょ)(戸部役所)のあった所だ。入江をへだてて横浜村を見渡すことのできる丘の上に奉行所を設けたのは、要塞とすることも考えたようである。

1858(安政5)年7月、外国奉行に任ぜられた水野筑後守忠徳(ただのり)・村垣淡路守範忠・堀織部正利煕(としひろ)・酒井隠岐守忠行・加藤壱岐守則著の5名が、翌年6月に神奈川奉行の兼務を命ぜられ、この戸部村宮ヶ崎で開港事務などを執ることとなった。

神奈川文化センターの一角にある県立音楽堂と神奈川婦人会館の間の道を150mほど進むと、掃部山(かもんやま)公園の入口がある。公園の中央に井伊直弼像(いいなおすけぞう)がある。ハリスの強硬な通商条約調印の要求に、孝明天皇の許可を得ないまま調印に踏み切り、また将軍の後継問題では慶福(家茂)を擁立した大老井伊直弼である。彼はこれらの政策に反対する人々を安政の大獄で弾圧したが、1860(万延元)年、桜田門外で水戸浪士たちの襲撃を受けて斬殺された。

1882(明治15)年頃から旧彦根藩(直弼の藩)の士族らは井伊直弼の銅像をつくることを計画した。市の有力者などからも助力の申し出もあったが、これを断って旧藩士だけで造立し、横浜開港50年を記念して1909年銅像の除幕式を行った。高さ約7mの台座の上に正四位上左近衛権中将の正装をした約4mの井伊直弼の銅像であった。

この銅像は幾多の受難を経て今日に至っている。まず除幕式に至るにも一波乱あった。というのは、当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人で、この人々の圧力もあって除幕式中止が命ぜられたのを旧彦根藩士らは除幕式を強行したのだった。しかし翌日には銅像の首が切り落され、また第2次世界大戦中の昭和18年、金属回収により取り払われるなどの災難にあった。1914(大正3)年、庭園・銅像などいっさいが横浜市に寄付され、掃部山公園と名づけられた。現在公園に立つ銅像は、開港100年の記念行事の一つとして、昭和29年に再建されたものである。四季折々の行事も催され、市民の公園として親しまれている。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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