久保山墓地

横浜の歴史散歩
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横浜市西区元久保町(根岸線桜木町駅バス保土ヶ谷車庫行久保山霊堂前下車)

バスを降りて右へ200m位の公園の中に管理事務所がある。およそ3万基のお墓が並ぶこの久保山墓地(くぼやまぼち)の大部分は共葬墓地(公営墓地)で、この墓地がつくられたのは1874(明治7)年のことである。開港以来発展を続けた横浜であるが、その市中の中心部にある寺院の境内に設けられた墓地が町の美観をそこなうとか、衛生上もよくないとかの考えが多くなった。そこで人家から隔絶された場所としてまず久保山共葬墓地が設けられ、同時に野毛にあった林光寺・大聖院や長者町にあった常清寺などの墓地がここに改葬されたのである。

共葬墓地の一角に官修墓地がある。ここには戊唇戦争で負傷し、横浜軍陣病院で手当を受け、そのかいもなく死んでいった官軍(長州・土佐の藩士)10余名(5区)や、1877年南西戦争で戦死した巡査兵士5名(3区・9区)の人々が埋葬されている。

1923(大正12)年9月1日の関東大震災でたおれた2万5000人余りの人々のうち、引きとり人のいない3300人の霊を祀り埋葬したが、適当な合葬施設の必要を考え、1926年政府からも交付金を受けて納骨堂を建設し、久保山合祀霊場と名づけられた。

このほか伊勢佐木町の埋立に活躍した吉田勘兵衛良信、横浜における自由党の巨頭であり元総理大臣吉田茂の養父吉田健三、生糸の輸出で横浜一の豪商になった原善三郎など、横浜で活躍した多くの人たちが葬られている。なお第2次世界大戦のA級戦犯の火葬が、ここでひそやかに行われた。このようにこの墓地は、明治の初めから、今日にいたる歴史のあとを、なまなましくものがたっている。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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