本牧グラフィティ"HOMMOKU GRAFFITI"

FENCEの向うのアメリカ・・・時代と共に姿を変える街、横浜「本牧グラフィティ」

奇跡の「スターホテル」

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奇跡の「スターホテル」

横浜中区史に、チャブ屋街では、三時間にわたる空襲によって、ただ一店、この頃としては数少ない鉄筋コンクリート造りのスターホテルだけが、焼失も倒壊もせず残った。」との文面と一枚の写真が掲載されていて昭和57年まで存在していたと書かれている。どのようにして、接収解除まで残っていたのか詳細を調べてみる事にした。

▽スターホテルの建物(昭和56年)-チャブ屋の唯一の遺構,接収地内にあったが昭和57年にとりこわされた。(写真:横浜中区史)
lighthouse_1981

【戦前から生き延びた約60年】
本牧の多くの建物は、1945年(昭和20年)5月29日、横浜大空襲の焼夷弾で焼け、終戦後は米軍による接収でブルドーザーにより整地された。しかし、接収地でありながら1982年(昭和57年)3月31日の接収解除後まで唯一残ったチャブ屋が「スターホテル」だった。
スターホテルが建造された年代は不明だが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で本牧の「あいまい屋(その後、チャブ屋と呼ばれる)」が全て倒壊した。しかし、その翌年の1924年(大正13年)5月6日の神奈川新聞の記事に「若い女性が東京の新聞広告を見ると、本牧の海岸にある立派な西洋館に住み込み、雑用をしながらフランス語を習い、好きなピアノも習うことが出来るという家があるのを知って、働くために家出をした。チャブ屋と知った両親が驚いて警察と捜索し救出した。女性もスターホテルがチャブ屋とは知らなかった。」というようなことが書かれているので、関東大震災後すぐに鉄筋コンクリート造りで再建したと思われる。その後も接収され米軍に利用されたが、接収解除後の1982年(昭和57)の跡地整地で取り壊された。

【戦前のチャブ屋時代】
「チャブ屋」についての詳細は、本サイトの過去記事を読んでもらうとして、本牧小港で約30軒ほどあったチャブ屋の中でも、唯一コンクリート造りの建物で玄関前には、車止めや噴水までもがある高級感あふれる洋館ホテルであった。ただし、外見は高級ホテルであっても所詮は、チャブ屋であったが新聞の広告等で若い女性を対象に雑用としての求人広告を出しトラブルが絶えず所轄の山手本町署の職員も度々、立ち入りを実施し大変だった様子が伺われる。
また、1935年(昭和10)年3月12日の神奈川新聞によると、競売になりそうな記事もあった。

「ホンモクの王座 スターホテル競売の運命 借金が払えないで」
享楽の巷、ホンモクチャブ屋街で王座を誇るスターホテルが競売の憂き目にあって注目されている。スターホテルの経営者内山盤根氏は、東京市浅草区北仲町五寺崎士郎さんから三千円余の債務があり、ついに建物、家財道具を差押さえられ、いよいよ来る十五日競売に付されることになり、大恐慌を来している。
しかしホテル側では、差し押えを受けた家財道具は山内盤根氏の物ではなく、妻内山コウさんの物であると主張、コウさんの名で十一日横浜地方裁判所へ異議の申し立てをなしたので事件は粉糾し、裁判所側の態度が注視されている。

▽チャブ屋街(昭和初期)<村上盛一氏提供>
※中央にスターホテルの看板が見える
チャブ屋-1926

▽スターホテルのマッチラベル(千代崎清蔵さんのマッチコレクション「横浜ジャズ物語」)
スターホテル スターホテル3

【本牧の空襲】
・1945年(昭和20年)5月24日:未明、B29、250機来襲。市全域を爆撃。
・1945年(昭和20年)5月29日:午前、B29、500機、P51、100機来襲。無差別焼夷弾爆撃とP51による銃爆撃。焼夷弾投下総量2570トン、旧市域の市街地壊滅。(横浜大空襲)

本牧のチャブ屋は、5月24日の空襲で最初にやられた。と言うのも、ふ頭の外に擬装艦(空襲の頃、新山下町の地先の海面で、汽船を小型航空母艦に改造していたもの)を配置していた為、それをめがけて爆撃して来たので、空襲がひどかった。擬装艦のつないである海は浅かったので、沈みようがないのに、それを目がけて、いつまでも爆撃していたと言う。更に、5月29日の横浜大空襲では、大量の焼夷弾を投下され横浜方面から麦田のトンネルを出たら本牧の海がずっと見渡せるくらい何もない焼け野原となった。

▽小港町付近。奥の小高い丘は本牧十二天だと思われる。(写真:米国国立公文書館所蔵)
本牧焼け跡1 本牧焼け跡2

しかし、鉄筋コンクリート造りのスターホテルだけが、奇跡的に残った。

【進駐軍の上陸】
1945年(昭和20年)8月15日の終戦からまもなく、進駐軍は本牧沖から上陸用船艇によって、完全武装の米兵が上陸した。つづいて海岸に鉄板を敷き、その上にジープやトラックを陸揚げし、今の大鳥中学校あたりの海岸には、露営のテントが張られた。
外国にまでその名が知られていた「本牧のチャブ屋」は、そのイメージから、上陸する進駐軍兵士らの慰安の場として利用された。当時のチャブ屋経営者達は、警察部長に慰安所の設置を頼まれ、ただ一軒焼け残ったスターホテルを共同で利用して営業をすることになる。朝、昼、夕と2~3人のMP(ミリタリー・ポリス)が巡視して秩序は保たれていたが、営業を開始すると大勢の進駐軍が鉄砲片手に、押しかけてきた。
この頃は、上陸した進駐軍の米軍兵舎がスターホテルの近くから十二天にかけて、30位のテントが建てられ、テントの内は重油発電機で、夜も明るかった。しかし、スターホテルは、ローソクの光だけで営業しており、それを見かねた米軍兵が、電線や電球を持ってきて明かりを灯してくれた。経営者や女性達は、大変喜んだという。
慰安施設を開くと、性病の防止は絶対に必要なことであった。もともと、チャブ屋街では、1921年(大正10年)に警察の指示によって、経営者間で組合が組織され、月二回の健康診断が行われていた。1925年(大正14年)頃から毎週一回に改められるなど、予防には努力がなされ、本牧チャブ屋街の特徴の一つとなっていた。戦後もこうしたことは、さらに米軍からの強い要求もあって、一段と強化された。診察に当ったのは地元の医師渡辺熊雄博士(元神奈川県性病防止協会会長)で、スターホテルの一室で博士の献身的な活動が行われた。
しかし、この旧スターホテルの小港町二丁目やまわりは、接収一号地として接収されたので、業者は小港三丁目から本牧二丁目、旧市電通り裏一帯にかけて移転した。業者の数も昭和二十一年には六四軒に達した。戦後のチャブ屋は、場所をかえて繁盛し、ふたたび本牧や小港が歓楽街としての歩みをはじめた。
戦前のチャブ屋業者は、道路を跨いで戦後に米軍専用のチャブ屋(これをチャブ屋と言うかは別として)を復活させた。戦前のチャブ屋の名前をそのまま使っている業者もあり、スターホテルも現在の大黒屋に場所を移動して営業を再開した。

参考:戦前・戦後のチャブ屋地図

【接収地としてのエリア1】
米軍将兵の家族の第一陣到着は、1946年6月25日、横浜港に180名の家族を乗せた米軍輸送船アインスワースが到着した。本牧・根岸の住宅地区の整備・建築の為、本格的な入居は10月から始まった。
スターホテルが残った地区は、米軍で、ナスグブビーチ地区、あるいはエリア1(海側)と呼ばれ、接収地では、あったが建物が利用可能なことから改修して米軍に利用されることになった。

▽改修中のスターホテル(写真:Yohi 1946年)
lighthouse_1946
▽改修直後のスターホテル(写真:Yohi 1946年)
yokohama_construction7
yokohama_construction12
yokohama_construction26

【保育園・幼稚園時代】
さて、接収されたエリア1で改修され、どのように利用されていたのかを調べてみました。色々と調べて行くと、「LIGHTHOUSE」という名称の建屋となり、保育園・幼稚園として利用されていたことが分かりました。
そして、こう書かれています。

原文:「The school was a “nursery / kindergarten” in Area 1 in Yokohama – near Kominato – it opened in the late 1950’s and closed in the early 1970’s.」

翻訳:「小湊の近くの学校は、横浜のエリア1で ”保育園/幼稚園” であった​​、それは1950年代後半にオープンし、 1970年代初頭に閉じました。」

▽ライトハウスの外観(写真:Yohi 1959年)
lighthouse_19592 lighthouse_1959
▽ライトハウスの場所(※この建屋だけ、向きが明らかに他の建屋と違っている)
lthouloc

【クラブ時代】
「LIGHTHOUSE」が、1970年(昭和45年)に閉鎖となり、1982年(昭和57年)の接収解除までの12年間は、どのように利用されていたのか?空き家だったとは思えないので調べてみた。すると、こんな記事が見つかった。

チャブ屋街の唯一つの遺構となっていたスターホテルは接収され、米軍住宅のなかでクラブに使われていたが、五十七年三月三十一日の接収解除ののちの跡地整地のとき取り壊された。(横浜中区史)

スターホテルの場所の近くに「シーサイドクラブ」があった。そこは、日本人もゲストとして入りやすいクラブだった。道路にもネオン看板があり、そこの別館または控室等として利用されたと思える。但し、子供達のサークル部屋等もクラブと言うので一概にナイト・クラブとは断言できない。(上記の記事以外に根拠なし)

▽本牧通りからエリア1への入口(写真:Yohi 1965年)
area_1_gate_1965
▽デイブ平尾のLP「横浜ルネッサンス」のジャケット
5L-00625

【接収解除後】
1982年(昭和57年3月31日)接収解除となり、スターホテルは日本に返還された。その場所は、現在のイトーヨーカドーの裏の空地となっている。最後の写真と思われるのは、以下の写真だが何故か「昭和30年」となっていた。既に書いたが、1955年(昭和30年)は、「LIGHTHOUSE」が運営されている。ところが、この写真は廃墟に等しいし、背景にマリンハイツが写っている!マリンハイツは、1975年(昭和50年)に建てられたので何かの間違いかも知れない。逆に、廃墟で、前の車止めの噴水は、草が茫々と茂っているので、これが接収解除後の写真だと思われる。

▽写真「戦後50年横浜再現―二人で写した敗戦ストーリー」
lighthouse_1982

【航空写真から見る】※分かりやすく「山手警察署」をマーキングした。
▽戦前のチャブ屋地図(スターホテルの位置が確認できる)
17スターホテル
▽1911年 航空写真(車止めや噴水が確認できる)
16
▽1947年 航空写真(右上の十二天が海に囲まれている)
14
▽1949年 米軍エリアマップ(建屋 No.125)
15
▽1982年 航空写真(右上の十二天が埋め立てられている)
13
▽2003年 航空写真(接収解除後の更地)
12
▽2014年 航空写真(横にイトーヨーカドーが出来る)
11
※2006年まで行われていた「本牧ふるさと祭り」は、現イトーヨーカドー敷地であって、スターホテル跡地ではない。

現在は、屋外セットスタジオ「本牧バックロット」として2005年12月から数々の映画やテレビ等の撮影で使用されています。株式会社パシフィックハウス

【最後に】
こうして、スターホテルは、戦前から戦後を生き抜き接収解除まで存在していました。日本の手に渡ってからすぐに解体されたのが少し残念です。諸事情は多々あると思いますが、何とか残せなかったのかと残念です。本牧十二天も綺麗な公園として復活したので、スターホテルと共存してたら素敵だったと思いました。

▽現在の写真に、スターホテルを重ねた想像図
star_12

復活した、「本牧十二天緑地

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