横浜遊郭

歴史
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横浜遊郭とは、横浜で移転を繰り返した公娼遊郭の総称です。

本牧のチャブ屋については、このブログでも紹介したが、私娼のチャブ屋に対して公娼の遊郭が存在します。その、遊郭についても本牧と関連がある為、色々と調べてみた内容を紹介します。

「遊女」
遊女とは売春婦のことだが、語源にまでさかのぼると最初は、決まった住居を持たず旅(遊行)をしながら芸能(踊り子や歌い手)や売春で暮らしていた女という意味で「遊女(あそびめ)」と言われていた。そして、しだいに旅費ではなく生活費を稼ぐために定住して売春する遊女が現れる。また客と遊女の仲介として遊女屋が出現し、この辺りが売春婦としての遊女の始まりと言われている。

「公娼」
・1193年(建久4年)源頼朝が里見義成を遊女別当を命じ、諸国に散在する遊女の訴願を取り裁かせた。それまで、売春は自由業(遊女)であった。
・1528年(大永8年)足利義晴は「傾城局」を設け、遊女から税金を徴収した。
※ 売春業を公に認めた。
・1585年(天正13年)豊臣秀吉は、大坂三郷に遊女町を許可。
※公娼制度の始まり。
・1589年(天正17年)豊臣秀吉は、京都二条柳町に柳町遊里開設を許可。
※芸妓(芸を売る)
・1592年(文禄元年)博多の商人が、今博多町に長崎で初めてポルトガル人の船乗りを相手にした遊女屋を開設した。
※外国人用の遊女屋の始まり。
・1617年(元和3年)江戸幕府は、日本橋葺屋町界隈に遊郭「吉原」を許可。
※公認遊郭の始まり。

【遊郭設置 五箇条の掟書】
一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止さるべく候。
(設置場所以外では遊女屋はいっさい認めない。)
二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
(客は一昼夜以上店にいてはならない。)
三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地にても紺屋染を用ひ申すべく候事。
(遊女は贅沢な着衣は用いない。)
四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の格式通り屹度相勤め申すべき事。
(遊郭は質素なたたずまいとし、町役は他の江戸の町と同様にする。)
五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候者は奉行所へ訴出づべき事。
(身元不審の者は奉行所へ通報する。)

・1639年(寛永16年)西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生した。(1642年との説もある)

「私娼」
・古代、奈良時代、平安時代から駅馬・伝馬の制度によって宿場が配置された。
※先に述べた「遊女」は、宿場を巡り商売を行っていた。後に、生活費の為に売春をする「遊女」が発生する。
・1601年(慶長6年)徳川家康が東海道五十三次を始め宿場を整備した。
・1617年(元和3年)遊郭が設置(五箇条)され、それに伴って遊女が摘発されるようになる。宿場は、商売の競争激化に伴い奉公人という名目で黙認された「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる私娼を置いた。
※現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。

さて、1617年の五箇条で、ようやく公娼と私娼とを区別する公法上の体制が整いました。

「開港・横浜遊郭」
・1571年(元亀2年)ポルトガル船の貿易港として『ポルトガル貿易港長崎』が誕生した。※それまでは、普通の漁港を貿易拠点としていた。
・1853年(嘉永6年)6月3日浦賀に、大統領の親書を携えた、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる4艘の黒船が来航し、翌4日には、本牧沖まで乗り入れ測量を行った。親書の受理が行われると「来年その回答を受取りにくる」と言って日本を離れた。
・1854年(安政元年)3月アメリカ海軍総官のマーサ・カルヴィレス・ペリーと幕府のあいだで日米和親条約(神奈川条約)が結ばれた。この時、ペリーは神奈川港の開港をせまったが、神奈川は東海道の宿場町でもあり、簡単に外国の軍隊を入れるわけにはいかなかった。幕府は、とりあえず仮の開港地として下田と函館をあてた。その間、ペリーは本牧の測量も行い八王子鼻の崖に小舟を漕ぎ寄せて白い塗料で崖に横文字を書いて行った。

ペリーの地図によると、根岸湾を「ミシシッピー・ベイ(湾)」、十二天の崖を「マンダリン・ブラフ(みかん色の崖)」、八王子山の崖を「Treaty Point(条約地点)」と呼んだ。

▽「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」 (現在の本牧市民プール側)

▽上陸用のバッテイラ(ポルトガル語で小舟やボートを”bateira”と言う)

※ちなみに、寿司のバッテラもポルトガル語の”bateira”が語源となっている。説には、寿司の押し出し器から来た由来と、コノシロ(コハダの成魚)を酢で絞めた時の魚の形から来た由来の二つの説がある。

東海道の宿場町である神奈川に軍艦・軍隊を入れたくない幕府は、神奈川の港から山をひとつ隔てた南側にある横浜の入江を神奈川の港だと偽ろうとした。そこは、今の山下公園と山下通りで、遠浅の海なので、埋立工事に適しており、港と町をつくり神奈川港と見せかける策略だった。

▽山下公園周辺を埋立し川で囲み封じ込める策略(今の、関内)

・1856年(安政3年)8月アメリカ政府外交特使として日本総領事を務めるタウンゼント・ハリスが来て仮の開港地下田の玉泉寺を領事館とした。ここで、「唐人お吉(斎藤きち)」の物語が有名だが実際のところは、ハリスの体調不良の為にメイドとして雇われただけで回復後は、解雇されている。
・1858年(安政5年)徳川幕府の下田奉行と目付同席のうえでアメリカから派遣された総領事ハリスのあいだで日米修好通商条約(日米通商条約)が結ばれた。つづいてオランダ、ロシア、イギリス、フランスと結んだ。これによって、神奈川は下田からの艦隊の兵士をはじめとしてかなりの外国人が上陸し入居の準備を進めていた。外国人は、女性(遊女や飯盛女)を求め神奈川宿へ集まった。
・1859年(安政6年)6月10日に仮設遊郭「駒形屋」(現:神奈川県庁付近)が開設する。横浜が開港場として選ばれたことにより、道や建物の建設により職人や労働者が集まり、商人が店を構え、外国人の渡来など、横浜に多くの人がやって来るようになり芝居や相撲などの興行も行われた。
・1859年(安政6年)8月に神奈川宿の旅籠屋に黙認していた「飯盛女」を置くことを禁止した。禁止により、仮設遊郭「駒形屋」へ外国人及び私娼を移動させる為。
・1860年(万延元年)4月に駒形屋が移転され埋め立て地である太田屋新田地内(現在の横浜スタジアム)に、アメリカからの開港の条件の1つとして「港崎遊郭」が作られた。経営方式は吉原と長崎の丸山を合わせたもので、吉原方式は江戸吉原の構造や格式など。丸山方式は長崎の出島のオランダ人を相手にする時の方式で娼妓がオランダ人の家に出向くものである。特に、丸山方式が多く「一夜送り」とか「一夜行き」と呼んだ。

▽遊女と人力車

【港崎(みよざき)遊郭】(約1万5千坪)

1860年 娼楼(人数):岩亀楼(36)、五十鈴楼(39)、新五十鈴楼(17)、出世楼(19)、金石楼(17)、戸崎楼(16)、開勢楼(20)、新岩亀楼(27)、岩里楼(27)、伊勢楼(23)、玉川楼(21)、保橋楼(12)、泉橋楼(26)、金浦楼(16)、大本楼(15)
合計 15軒 331人

局見世(軒数:人数):万長屋(17:89)、寿長屋(13:84)、千歳長屋(14:66)
合計 44軒 239人 ※局見世=長屋形式で最下級の女郎屋

「岩亀楼」

・幕府の建設を請け負ったのは、品川宿で飯盛り旅館「岩槻屋」を経営していた佐藤佐吉であった。佐吉の岩亀楼は港崎遊郭のなかでも、ひときわ立派な建物で外国人用の3階建てと、日本人用の2階建ての2棟があったという。外国人を相手(ラシャメン)するには、全て「岩亀楼」の許可が必要で、かなりの利益を上げ、それを元に商売を拡大していった。

・「岩亀稲荷」= 港崎遊郭の遊女をまつる岩亀稲荷。戸部の「岩亀横丁」と呼ばれる地域にあり、そこには岩亀楼で働く遊女達が病気になった時に静養する保養所があった場所である。

・1862年(文久2年)11月23日、岩亀楼の遊女“喜遊(きゆう)本名:喜佐子”が、19歳(別説では、17歳)フランス人のアボットが遊郭で人気のあったアメリカ人を名乗り(別説では、アメリカ人のイルスミン)が無理やり見受けしようとしたが、喜遊は拒否し、喉を突いて自害(別説では、切腹)し辞世と遺書を残したと言われています。喜遊の死体は、翌24日早朝に検死後、焼却されたが遺骨はどこに埋められたか不明である。

【辞世】
露をだにいとふ倭の女朗花
ふるあめりかに袖はぬらさじ

【遺書】
いかで日の本の女の操を、異人の肌に汚すべき。わが無念の歯がみせし死骸を、今宵の異人に見せ、かかる卑しき遊女さへ、日の本の人の志はかくぞと知らしめ給ふべし

但し、曖昧な点が多く攘夷派が話を過大にし更に芝居になった事から、どこまで事実なのかの真相は、不明である。

・横浜スタジアムのある横浜公園内には、現在も岩亀楼の石灯籠が残されている。

▽岩亀楼の石灯籠

・1862年(文久2年)神奈川宿の「飯盛女」を解禁した。
・1862年(文久2年)9月14日、「生麦事件」武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入(身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、伝わらなかった)した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した。

▽生麦事件の現場

・1864年 港崎遊郭の娼楼は、16軒で406人。局見世は、80軒で600人に増えた。

生麦事件をはじめ、事件が発生する度に幕府は多額の罰金を支払い財政を圧迫した。日本人と異国人を遠ざける為に外国人遊歩道を計画した。

・1864年 – 米、英、仏、蘭の4ヵ国の公使と幕府との間で「横浜居留地覚書」が取り交わされた。その十一条に「外国人遊歩のための長さ四~五マイル、幅二0フィート以上の道路を根岸村を廻って造営し」とある。

・1865年 – 外国人遊歩道が完成する。幕府は、その沿道の民家13軒に外国人用の休憩場「茶屋」を開店させた。当初は、遊歩外人の行動を監視する目的もあった。また、外国人の海水浴が本牧十二天側で流行し「海の家」が出来はじめた。外国人相手の料理店や酒屋から私娼が始まった。

公娼の「横浜遊郭」に対して、本牧界隈の外国人遊歩道に私娼が発生し「曖昧屋」「もぐり屋」と呼ばれた。後に入港した外国人を港から人力車で勧誘する形が整い「チャブ屋」と呼ばれる。

という経緯から本牧の「チャブ屋」へと、やっと辿り着く訳です。せっかくなので、公娼の「横浜遊郭」に関しても記載しておきます。

・1866年(慶応2年)12月、港崎遊郭は、豚肉料理屋から出火した豚屋火事により焼失し、太田町仮設(現在の県立歴史博物館側)へ移転。跡地が横浜公園となる。
・1867年(慶応3年)7月、「吉原遊郭」として沼地だった吉原町(現在の大岡川沿い)8千坪を埋立て開業(移転)した。
・1871年(明治4年)12月、吉原遊郭が再び火事のため焼失し、長者町仮設へ移転。
・1872年(明治5年)11月、マリア・ルス号事件をきっかけに、芸娼妓解放令が出された。遊女たちは妓楼から解放されたが、売春そのものを禁止しておらず、妓楼で自由意思に基いて個人的に契約をして遊女に戻ったりして大きな変化は無かった。

前借金(貧農の娘の身売り等)で縛られた遊女たちが解放され、本牧方面の私娼(後の、チャブ屋)に流れた遊女もいたと思われる。

・1872年(明治5年)11月、「高島町遊郭」高島町(以前の東横線高島町駅付近)で開業(移転)した。
・1888年(明治21年)6月、「永真遊郭」永楽町・真金町で開業(移転)した。約2万坪の広さを誇る永真遊郭として開業した。
・1900年(明治33年)内務省令として“娼妓は名簿に登録され、警察が管理する”娼妓取締規則が公布。娼妓が届出し、国が営業を許すという「公娼制度」が確立された。
・1908年(明治41年)永真遊郭には貸座敷が67軒、娼妓が1,463人。大正中期になると、貸座敷が80余軒、娼妓の数は1,800人を超え、隆盛を極めた。
・1945年(昭和20年)8月、民間に進駐軍向けの特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)を設置する。半年で閉鎖。
・1946年(昭和21年)2月、娼妓取締規則が廃止された。行き場を失った慰安婦が街娼となり急増。
・1946年(昭和21年)11月、街娼を管理するため、“特定区域の特殊飲食店で警察の監視下のもと売春行為を許可する”「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」が発令。
・1958年(昭和33年)3月、売春防止法により遊郭(赤線)が廃止。

このように、横浜遊郭は約100年の歴史に終止符を打ちました。外国人を東京に近い神奈川宿(遊女・飯盛女)から遠ざける為に、何もなかった横浜に港をつくり関内に封じ込めようと遊郭(公娼)を開設しました。更に生麦事件等のトラブルを避ける為に、本牧界隈に外国人遊歩道をつくりますがチャブ屋(私娼)が発生してきます。戦後においても、進駐軍から「善良な婦女子を守るために」という名目で特殊慰安施設が開設されました。本牧とは、華やかなアメリカ文化で煌びやかなイメージを残していますが、過去に政府・外国人、そして女性の問題を外すことが出来ない歴史を持った地域であることを忘れてはいけません。

【参考】
川元祥一(1997) 『開港慰安婦と被差別部落-戦後RAA慰安婦への軌跡-』 三一書房

コメント

  1. お褒めのお言葉、ありがとうございます。いつも、本牧の図書館に行って、
    郷土資料やら、本牧関連書籍を探すのが日課となっています。
    マイペースですが、これからも「本牧グラフィティ」を宜しくお願いします。

  2. サクラ より:

    丁寧で、分かりやすい解説、
    楽しく読ませて頂きました。
    優しい人柄が伺えますね〜。
    これからも、
    本牧の色々を綴って下さい。

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