チャブ屋(2)

チャブ屋
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1.「遊郭」時代:1860年~
・1859年の開港後、港崎遊郭が開設される。

【遊郭】長崎大学附属図書館

2.「茶屋」時代:1865年~
・外国人の休憩所として開店
・室内を洋風化して酒類や料理を提供し女性が接待する。
・外国人船員を相手に私娼窟と化する。
・海岸では「海の家」として茶菓子や食事場として開店する。
・海の家でも酒と女が入り込むようになる。

3.「もぐり屋・あいまい屋」時代:1882年~
・本牧天徳寺下「春木屋」、小港「大黒屋・時川」、
上台「梅木」、北方「大野屋」、など開店した。
・春木屋がチャブ屋の元祖とも言われている。
ラシャメンに比べれば格安なので商売が大当たりした。
・房総や相模地方の漁村の出身者が多く世渡りがうまかった。
・化粧も濃厚になり派手な衣装と脂粉の香りに包まれていた。

4.「西洋化」時代:1892年~
・横浜市中に散在し「○屋・○楼」から「○ホテル・○ハウス」
屋号をつけペンキ塗装で洋式に改造しインテリアも洋風。
・前田橋付近から横浜公園にかけて軒を連ねていた。
・1899年に、本牧では村有地売却で「本牧騒擾事件」が起こる。
※本牧神社の宮司武本氏(割烹旅館「桜屋」の次男)、木内某氏(料理店「春木屋」の主人)が村民数百人に襲われ重傷を負った。
・当時、本牧海岸には、「金子」「時川」「京屋」が海水浴場を兼ねた茶屋が運営。
・いずれも後にチャブ屋となるが、「春木屋」と「金子」は西洋館の草分け的存在。
・「キヨ・ホテル」は、リキシャマンだった倉田治三郎が奥さんに「あいまい宿」を開かせた。
・他の同業者の多くは、「時川」「金子」の店出身者が経営者となる。

5.「チャブ屋」時代:1919年~
・散在してる「チャブ屋」を小港と大丸谷に集約した。
・断髪にドレスの女性がお酒、ダンスの相手を務めた。
・女性は、紫、黄、黒、花柄などの裾まであるドレスを着て
髪にリボンを結んだり耳には大粒のイヤリングをつけ、
首にはスカーフやタイを結んでいた。
遊郭の女性みたく身を売った女ではなく流れ者が多かった。
・1Fには、ピアノがあり、2Fが女性の自分の部屋だった。
・音楽は、ブルースかタンゴが流れていた。
・今の、バー、キャバレー、スナック、喫茶店、ダンスホール
などをミックスした内容で私娼も行っていた。
・日本人が出入りしたのは、1923年の関東大震災後だが、それ
以前も著名人は姿を見せていた。有名なのは谷崎潤一郎。
・特に本牧十二天の「キヨ・ホテル」が有名であった。
キヨ・ホテルの目の前は海で、昼間は女性が遊んでたという。
1Fはテーブルに囲まれたホールでダンス。蓄音機からジャズ。
2Fは回り廊下で天井からシャンデリアが吊下がっていた。
・市電の小港停留場の近くに「東洋一の歓楽郷」の広告塔があった。
・昭和初期:ビール市価0.38円が1円~1.5円、ウイスキーが1杯2円。
・昭和15年:大卒60円で1泊30円程度かかった。
・1945年 – 横浜大空襲により全て焼失する。敗戦で焼け地接収される。

6.「チャブ屋」時代:1945年~
・戦後、山下町のアパート互楽荘を占領軍特殊慰安施設として用意。
・小港町3丁目、本牧町2丁目に42軒の「チャブ屋」が復活。
営業形態は、遊郭で常識であった前借制度は行われず、ヤクザ組織
との繋がりは、なかった。遊郭の陰険さはなく、比較的陽性であった。
・お客は全て進駐軍兵士で日本人は「オフ・リミット」であった。
・1958年2月27日「売春」が法律で禁止され、県下17地区814軒2954人 の女性が県下各地で解散式を行った。

【用語解説】
・飯盛女=江戸時代、東海道沿線の宿場町にいた私娼
・女郎=遊郭の女性
・ラシャメン(洋妾)=外人相手のお妾さん
・リキシャマン(人力夫)=今で言うポン引き
・お羽織さん=チャブ屋の経営者
・モクガール=本牧のチャブ屋女性
・酒場さん=店をきりもりするママさん。
・パンパン・ガール=敗戦後の売春婦の総称
日本兵が占領したサイパン島で、ヤシの木陰で手をパンパンと
叩くと、チャムロ族の女がやってきて身体と物品を交換した。
・ジキパン=最下級の街娼。食事代程度で男を誘う乞食パン。
・白パン=白人の占領軍兵士を主な相手とする街娼。
・黒パン=黒人の占領軍兵士を主な相手とする街娼。
・バタフライ=従来の慣行地以外で外人を相手にする街娼。
・オンリーワン=特定の相手を持っているもので、私娼窟を形成した。
・青カン=民家の軒下で、野宿する人の由来で野外での売春。

「昔と現在の様子」

・戦前の小港(スターホテル)北方

・戦後の小港、本牧町

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