中華街

横浜の歴史散歩
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現在、”中華街”といえば、ヨコハマの味を代表する中華料理店の並ぶところといっても過言ではない。

1859(安政6)年、横浜開港以来、欧米人は多くの清(しん)国人をつれてきた。貿易に従事した経験を生かして海産物の買付けなどを行なうためとか、また商館などで労務に当る苦力(クーリー)としてである。当初、幕府は清国と条約を結んでいなかったので入国を取り締ったが、1871(明治4)年、日清修好条規を締結した後、中区山下町のこの地に各種の職業をもった人々が集まり、中国人の街を形成した。この地の居留民は上海・南京出身者が多かったこともあり、横浜の人々に昭和のはじめまで南京街(ナンキンマチ)と呼ばれ、親しまれてきた。

1899年、外国人居留地が廃止され、中国人の居住・移転・営業の自由も認められたが、職業としては貿易業・料理人・洋服仕立・理髪などに限られていた。大正から昭和にかけて料理店が増加し、今日に至っている。ただこの街は順調に発展してきたわけではなく、日清戦争の時は帰国者が続出し、関東大震災では1000人以上の死傷者を出し、町は瓦礫(がれき)の山と化した。太平洋戦争の時も空襲で焼け野原となってしまった。

太平洋戦争後、中華街の中央に「中華街」という額のかかった高さ役15mの朱ぬりの牌楼門(ぱいろうもん)が建てられ、建物も極彩色の店構えを工夫し、異国情緒豊かな街として復興した。なお街の中に,『三国志』の武将関羽を祀った関亭廟(かんていびょう)がある。これは1873年、商売繁盛・家内安全を祈って建てられた。1990年に改築し、その華麗な姿は中華街の名所になっている。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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