チャブ屋の記事:神奈川新聞(戦前)

チャブ屋
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今回、神奈川新聞から「チャブ屋」の文字が使われている戦前の記事を抜き出して当時のリアルな状況を調べてみました。文章の引用間違いや、抜き出しモレがあるかもしれない事をご了承ください。

現在の「神奈川新聞」は、次の様に変遷していますのでご注意ください。

明治23年 2月 1日~明治37年 6月19日「横浜貿易新聞」
明治37年 6月20日~明治37年 6月30日「横浜新報」
明治37年 7月 1日~明治39年12月 2日「貿易新報」
明治39年12月 3日~昭和15年12月12日「横浜貿易新報」
昭和15年12月13日~昭和16年12月31日「神奈川県新聞」
昭和17年 1月 1日以降       「神奈川新聞」

また、記事全文を知りたい方は以下で閲覧可能ですのでご利用してみて下さい。

日本新聞博物館 http://newspark.jp
〒231-8311 神奈川県横浜市中区日本大通11 横浜情報文化センター内

【チャブ屋の記事】

明治41年9月30日「本牧の水死美人」
本牧の小港先の海岸で女性の漂着死体が発見された記事。チャブ屋街の付近なので、茶屋女の可能性として身元を捜索していると書かれている。興味深いのは女性の服装が細かく記載されており当時の茶屋女の流行が見て取れる。

二十九日午前六時頃、市内本牧町字小港百八十七番地地先海岸に、年齢二十前後の女の死体漂着したるを発見し、水上署より係官出張検視せしに、丈五尺位、中肉丸顔、色白にて髪は濃く、散乱しおれど銀杏返しに結いたる形跡あり。
 着衣は紺絣の単衣物、白縮の襦袢、真銘仙矢絣の表に桃色新海気の裏付き袷羽織、縞メリヤスの丸帯、赤メンネルの腰巻き、白メリヤスの半袖襯衣、赤メンネルの股引、白足袋等にて、付近に黒塗り表付き下駄ありしのみにて、別に所持品、遺留品などなく、死体は全面蒼白色を呈し、両足に擦過傷ありしも、岩などに触れたものらしく、死後十時間位を経過したもので、全く覚悟の自殺と知れしが、身許不明にて死体は市役所に引き渡されたり。察するに右の風体よりみれば、茶屋女らしく、付近には外人を相手とするチャブ屋多ければ、多分付近の者ならんとの見込みにて、目下捜索中なりと。

明治44年11月26日「横浜の一昼夜”チャブ屋の一時間”午後七時より八時まで」
昔の本牧話からチャブ屋の潜入レポ的な記事。本牧は、半農半漁の寒村だったが今では、女性からアメリカ人を店に連れ込むようになったと書かれていて女性の話では、「チャブ屋も楽に儲かっているように見えても大変だ。」とか「アメリカ人は羽振りが良くて、イギリス人はケチだ。」、「商売上、アメリカの軍艦の出入りは警察より先に知っている。」などチャブ屋女性の本音がわかる。

老人の話に聞く亜米利加の黒船が初めて日本へ来た時、その姿を見たのは恐らく本牧の住民が一番早かったろう。その時から数えて五十年、元村、石川村、吉田堤辺りに葦切の声が段々聞こえなくなって、村は町に町は市に、次第に膨れ膨れて今の横浜市が出来たのである。
 併しこの最初の黒船を見た本牧は、最近までこれらの膨張を外に見て、依然たる一漁村であったが、それでも何時かは繁栄の道連れになって、数年前から人も知る如く横浜市に編入された。
 さればこの半農半漁の寒村は、世の進歩に何時も後れているだけに、その自然の賜物たる風光に至っては、蓋し京浜間第一の称を加うるに躊躇しない。
 春は海辺にほろほろと散る櫻花、花弁を載せて行く潮干狩。秋は天空一碧房総の青黛は濃く淡く、鋸山富津の浮き砲台、さては猿島の蔭から駆逐艦や水雷艇が波を裂いて出る艦首の白泡。万里渺茫たる大洋に幾日の無聊を偲んで来た西洋人には、桃源洞へ辿り着いた思いがしたのであろう。
 彼等の多くは居留地山下町辺に商館を開きながらも、住宅はこの絶佳の地を選んで、疲れた心身をこの波に洗う者が多い。而して彼等をチャームするものは、この絶佳の風光ばかりではない。この風光に加えて、頭髪の漆の様に黒い、そして容姿の優雅しい日本の娘は、彼等の心をひどく魅了したものらしい。日本ののムスメさん、この名はハラキリ、ブシドウと共に、彼等の帰国の土産話となった。そして新たに来る彼等は、この土産話を聞いて、母国を出るなり、もうムスメさんに憧憬している。今に残る当時の語り草、露をだに厭う大和のおみなえし、ふる亜米利加を振って自刃した女もないではなかったが、彼等の手には人生唯一の武器なる黄金があった。
 彼等は人形の様に優しいムスメさんを愛すると共に、ムスメさんは又一時の不快を忍ぶことによって満たし得られる欲望に走らざるを得なかった。かかるが故に、ムスメさんたちは争って彼等の寵に走った。
 兎角するうちに、神奈川には外人相手の神風楼が出来、本牧から山下町にかけては酒場が出来た。銘酒屋が出来た。今の所謂「チャブ屋」とは、このムスメさんが銘酒屋に陣取ったものである。今では本牧ばかりでも十二、三軒もあろうか、中には、「本牧ホテル」などと振るった名のものもある。
 午後七時半頃ツイっと入ると、ルイザともつかぬ前髪ばかりヤケに出した十七、八の、西洋人のいうムスメさん、吾等のいう淫売婦が、記者の顔を見てちょっと変な顔をしたが、此方も何気ない風に「あゝ疲れた。コーヒーかビーヤを飲ませてくれ」、ドッカと腰をおろすと始めて安心したらしい様子。急に笑顔を作って籐椅子のある一室に導いた。
 前は一面本牧沖。昼なら二、三寸顔を出した祖朶の間を縫うも見えよう。何処の部屋からか、二、三人の同じ様な白い女が出てきた。
 「今頃は暇かえ」。我ながら月並みの事を言うと一人が「十月からこの二(ふた)月が一番暇ですよ。一口にチャブ屋々々と世界中の異人さんが皆来る様に云いますが、なかなかそう来るものじゃありません」。
 「私達のお客様で一番いいのは亜米利加人でしょう。英吉利など亜米利加の本家だといいますが、一番吝嗇(しみったれ)です。なかなか金なぞ使いません」
 「それと反対に亜米利加の水兵さんと来ると、上陸するが早いか、山下町でも本牧でも、馴染みに処へ飛んで行って、百弗でも二百弗でもあるだけ使ってしまいます、ですから出帆に遅れて脱艦だ、脱走だといわれるのも、亜米利加の人が一番多いでしょう」
 「それですから私達も商売です。亜米利加の軍艦の出入りは警察よりも詳しく知っています」
と、四つの口からペチャクチャ。
 チャブ屋の酒は高価と予てから聞いていたから、帰りに相場を聞いてみると、客次第だが、普通の所でビーヤが大で四十銭から五十銭。ウイスキー、ブランデーの類が小さい洋杯(コップ)で二十銭から二十五銭とのこと。これで相応のお愛想を言うのだからさして高くもない。

大正13年5月6日「フランス語やピアノ教える家 実は恐ろしい人肉市 心せよ若き空想の女性たちよ」
夢を叶える為、少女がチャブ屋に行き救出された記事。その少女は、「自分は横浜本牧にある家に行って働きながら勉強する」と、一通の置き手紙を残して家出した。両親が自動車を飛ばし山手本町署に捜索依頼をして無事に救出されたホテルは「スターホテル」である。少女が見た新聞の求人広告は、かなり怪しい内容だったのだろう、彼女の気持ちが、それを表している。

行く春の野に立つ陽炎のそれか-淡き憧れ、虚ろなる夢を追いて可惜(あたら)青春の尊さを捨てて、永劫浮かぶことなき淵に、自ら陥ちゆく悲しき人の心は…。さもあらばれ、ここにこの淵に臨み、危うくも救い上げられし若き女性の物語。
 四日午後一時半頃、市内山手本町署中浦警部補の前に潜々(さめざめ)と泣き伏している一人のうら若い少女があった。
 彼女は東京市神田区松ヶ枝十五に広大な邸宅を有する豪商田島光三氏の次女でアサ子と云い、一ツ橋高等女学校の一年生である。彼女は魔の淵に陥らんとしたが、危うく助け上げられて、今懇々と論されている処である。暫し彼女が涙と共に語るところを聞け。
 「私の家庭では私を理解してはくれません。私は小さい頃から音楽が好きでピアノを習い、ゆくゆくはフランス語をも習って立派な一本立ちの女性として世を渡って行きたいと心掛けていました。然し父を始め兄も妹も一家の者がみな事ごとに私を虐げ、希望は一つも聞き入られず、私を不良少女扱いにします。
 私は東京の新聞広告で、本牧の海岸にある立派な西洋館で、小間使いをしながらフランス語も習えるし、好きなピアノも習うことが出来るという家があるのを知って、寧ろこんな嫌な家庭に居て虐げを受けるよりは、こういういい所があるならそこへ行ってしっかりと勉強し、自分の希望を遂げたいと思い家出をしたのです」そう言って彼女は泣き伏した。
 彼女は、かくて五日午後一時頃「自分は横浜本牧にある家に行って働きながら勉強する」と、一通の置き手紙を残し、飄然と自宅を飛び出して直ちに省線電車に乗り、新聞で知った本牧の洋館-北方町小港九六のスターホテルに出掛けたのである。
 然しそこはフランス語やピアノや音楽を習うという彼女の希望に添うような所ではなかった。一度陥れば永劫浮かび上がれぬ沈倫(ほろび)の淵、売春窟-チャブ屋だったのだ。しかし彼女は尚それに気付かなかった。
 アサ子の家出を書置きで知った家では大いに驚き、本牧方面に在りというのをたよりに、父光三氏は店員と共に自動車を飛ばして来浜、所轄山手本町署に彼女の捜索方を願い出たので、時を移さず同署では本牧方面に巣くう売春窟の全部にわたり捜査した処、まさしく前記スターホテルに居たのを加藤巡査が発見し、同署に同行保護を加えた。
 彼女は「私はそこのお上さんが明日検査に行くのだと云われて、何だか変だと思いましたが、そんな悪い所だとは夢にも知りませんでした」と云う。無知な彼女はかくして救われたのであった。
 「もう二度とそんな考えは起こしません。」と彼女はなみだを流した。
 さあれ、なお巷には幻のかげを追い、やがて人生の泥沼に堕ちてゆく若い人々がなお幾万とあることか。

この手の話は、昔も今も変わらないものです。

大正14年5月14日「山手署のチャブ屋退治 虚栄に憧れる若い女性へ おそろしい魔窟の話」
チャブ屋の求人広告の被害を止めようとする記事。特に地方の若い女性が都会生活に憧れている事を逆手に、チャブ屋の求人広告が地方の新聞に掲載することが盛んになってきた。長野県の少女2名がニューヨークホテルで働き、神奈川県中部の少女も文の家ホテルで働いていた。山手本町署に保護願いが増えているので、徹底的にチャブ屋の売春を取調べているとの内容。

本牧小港方面は、従来外人向け売春窟チャブ屋の所在地として知られているが、最近地方の若い女性が、従らに都会生活に憧れているのを幸いに、最近地方の新聞に若い女性の虚栄心をそそるに足るような文字を用い、巧みに少女を引き寄せ、魔の淵に陥れているが、最近その被害が盛んにある。
 去る十日長野県の少女二名が工女生活を厭い家出来浜し、新聞広告にあった小港のチャブ屋ニューヨークホテルに住み込んでいたのを父母が知って、山手本町署に保護を願い出たのを始め、神奈川県中郡の少女も広告につられて文の家ホテルに住み込んだが、広告と違い恐ろしい人肉市なのにびっくりして保護を願い出た。
 この際山手本町署では、徹底的に小港のチャブ屋の売春窟を槍玉に挙げるべく調査中である。

大正14年6月4日「処女の生血を吸う悪魔の舌 チャブ屋に喰われて その筋の眼大いに光る」
女給募集の広告で誘い若い女性が働かせられている記事。これまた、女給募集の広告を見て二人が上京した。ひとりは、長野県生まれでもうひとりは、茨城県生まれ。いずれも、ニューヨークホテル(再度)で主人の岩田時太郎が送致された。

一日午後四時頃、西波止場大桟橋付近を盛装を凝らした女が二人、徘徊する挙動を不審と認め、水上署員が取り調べた処、商人は何れも小港一六四チャブ屋紐育(ニューヨーク)ホテル岩田時太郎方の女給で、長野県生まれの小花よしみ、茨城県生まれの渡辺栄と判明した。
 栄は郷里の高等小学校を出て看護婦たらんと上京し、赤坂の看護婦会で修業して免状を得て立派な看護婦となったが、昨年四月東京某新聞の「月収百円云々」の紐育ホテルの女給募集の広告を見て虚栄心にかられ、女給として住み込んだが、そこは恐るべき人肉市で、間もなく明るみに出られぬ身となり、魔の淵で暗い職業を務めていたものである。
 また、よしみは小学校卒業後、郷里の製糸工場で働いていたが、昨年十二月髪結い学校に入る目的で家出し、その学費を稼ぐため、女給などしていたが、本年三月同じく広告を見て来浜し、ひとたび尊い処女性を失ってからは、自暴自棄となってその稼業を続けていたものである。
 水上署では、岩田を召喚し取調の末、三日検事局へ送致した。
 右につき係員は「最近不正広告を以て妙齢の処女を誘惑し、魔の淵に陥らしむるものが多いので、今後厳重に取り締まり、容赦なく検挙する方針である。この二人の如きは、ともに郷里より捜索願が出され、よしみの父親はこの事件を聞いて始めて同女の居所を知ることができたが、その浅ましい我が子の有様に泣き出してしまい、岩田を厳重に処罰してくれと頼んで行った位だが、虚栄にかられ易い妙齢の女子を持つ親は、正に注意すべきことである」と語った。

大正15年5月12日「本牧のチャブ屋へ 学生入り込む こいつ怪(け)しからぬと 山手署の一撃」
未成年者の学生まで遊興している記事。チャブ屋も当初は、外国人相手の高額な遊び場だったが不景気となり最近では、比較的騙しやすい学生や未成年を問わず入れるようになった頃の話だ。山手署では、森谷ホテルほか一戸へ臨検して、学生三名を調査中との事。三名は、未成年者と判明し、それを知っていて遊興させた営業者を処罰するだろうとの内容。

不景気風は陽春に入っても、なお凪ぎそうもなく、却って濃厚さを加えるので、大打撃を蒙ったのは花柳界であるが、市内各所に於ける当業者は、背に腹は代えられぬ羽目に陥ったので、比較的騙しやすい学生や未成年を無暗やたらに勧誘して安直専門に遊興させるようになった。
 最近は本牧小港辺りに散在するチャブ屋でも、連日明治大学や法政大学等の制服を着けた者や、東京、横浜で相当名望ある人の子弟で豪遊する者が激増した模様であるとて、山手署では、十日未明、怪しいと認めた森谷ホテルほか一戸へ臨検、明大生三名(特に名を秘す)を引致し取調中である。
 何れも未成年者と判明し、関係者を招致して取調を続行中だが、結局未成年者と知って遊興させつつあった営業者を厳重処罰する筈だと。

大正15年7月3日「本牧夜話に浸る チャブ屋の怪漢 此奴懐中の匕首 言う処頗る曖昧」
チャブ屋物語に浸って短刀を所持していた男を同行した記事。山手警察署で、小港付近一帯を臨検していたところ、カノホテルの奥座敷で「本牧夜話(著:谷崎潤一郎)」を読んでいた怪しい男を同署に同行し取調べすると短刀を所持しており、話も曖昧なことから某重要事件の一味とにらみ取調べを実施中との内容。

山手警察署では、一日夜本牧小港付近一帯のチャブ屋を臨検したが、カノホテルの奥座敷に「本牧夜話」なる恋愛小説を耽読し、チャブ屋気分に浸っていた自称松影町店員二橋某(24)を同署に同行取調べると、懐中に刃渡り六寸余の匕首をのんでいるし、言語曖昧なので、某重要事件の一味とにらみ取り取調中。

昭和2年8月16日「横浜夏の夜がたり 本牧夜話 -太呂雄生-」
昔の本牧を自分流の「本牧夜話」として語った記事。長々と続いているので、気になる部分の概要を次の通りにまとめました。
・「チャブ屋」…明治10年頃、イギリス海軍が150人位いて、その相手をしたのがチャブ屋である。小料理屋にご飯を食べに行くことをチャブチャブやりに行くと言っていた。それが、チャブ屋となったと思う。
・「ラシャメン」…外国の船員が、長い航海中、緬羊を船に乗せて性欲を満たしていたから。本牧村時代も馬鹿にしていた。千葉県からラシャメンを連れて来ていた。
・「支那人」…明治17,18年頃にアメリカの船が本牧沖で火事になった。乗っていたのは、お金を貯めて国へ帰る支那人だった。支那人は、命よりお金が大事なので身体につけて海に飛込み、その漂流死体が海岸に流れついた。おかげで、本牧海岸の者は、一躍金持ちになったが、その時の成金は、みんな良くない死に方をしたそうだ。

 「本牧夜話」と言ったって、なにも潤一郎どんの一手販売と限った事ではごわへん。そりやぁ潤一郎はんの『本牧夜話』と言ったら正に有名な『本牧夜話』だが、こちら太呂雄生の「本牧夜話」は、断然有名でない。だからこそ、こうして書くのだ。
 ◇
 本牧と云ったって、今の本牧じゃない。今は昔、はっきり云やぁ明治二十三まで北方村と本牧本郷村という二つの村があった。それがその時に一緒になって本牧村となり、三十四年三月に市のうちに入って、本牧村が北方町と本牧町に分かれた。
 その本牧村時代に、三十年十一月から市になるまでの本牧村の村長さん植木仲蔵さんに聞いたのがこの「本牧夜話」だ。
 植木さんは北方に何百年と住んでいる土地の豪族。「さあ、いつ頃からですかな。文永五年に金五両を上納した書付なんてがありますからなぁ」とある。文永五年たら、ハテな蒙古襲来の頃じゃなかったかい。
 ◇
 「チャブ屋」…さあ、ありゃ明治初年だね。その頃(明治十三年頃)小港海岸には屠牛場がうんとあった。その時分の横浜ったら今の支那みたいで、外国の軍艦は警備に来てる、外人の守備兵はいる、山手と諏訪町の間には英国の海軍がいた。赤い着物を着ていてな、赤唐人と呼んでいたが、総勢百五十人位居ったろう。多くその毛唐さんを相手にできたのがこのチャブ屋だ。千代崎町から天徳寺下にかけて出来たものだ。
 その前から有名な岩亀楼なんて云って、毛唐さんも登楼した女郎屋も町の方にはあったが、何せい本牧は狐がないていたような寒村だ。昼でも今の山手の山は越えるのが怖かったね。
 ◇
 その時分は、日本人、支那人なんて人間の数に入っていなかった。もうチャブ屋は毛唐専門で、日本人がどうやら客として待遇されるに至ったのは、日露戦争後だった。
 チャブ屋の名前かね。初めはあれがちょっと一杯飯を喰う小料理屋で、チャブチャブやりに行くと云ったらまあ、飯を喰いに行くことだったんだ。それが何時の間にかチャブ屋で通るようになったんだね。ふるアメリカに袖をぬらしたのは、ずっと前からあったろうが、まあチャブ屋といったものが出来たのは、明治十年頃だったろうね。
 ◇
 「ラシャメン」…この名前の起りは、昔毛唐の船員が、長い航海中、おとなしい緬羊を船に乗せてこれで性欲を満たしていた、その代理をするってので、軽蔑して呼んだのが始まりさ。
 本牧村時代でもこっちの者はそりゃ馬鹿にしていた。千葉県からラシャメンになる女を連れてきたものだ。その時分、月十五両位貰っていたね。大根一本一理、麦の斗俵が一両の時代だ。今の千円位にはなるだろう。初期時代のラシャメンで稼いだ者が、地所や家作を持って堂々とやっている。今だって北方、本牧辺りに七、八名はいるね。
 ◇
 明治十七、八年頃だったか、アメリカの船が本牧の沖で火事になったことがあった。乗っていたのは、金をうんと貯めて国へ帰る支那人ばかりだ。命より金が欲しい連中なので、これが金を身体につけて海に飛込み、その漂流死体が海岸へ流れ着いた。おかげで本牧海岸の者は、一躍してえらい金持ちになった者がいてさ。いや、警察がないわけじゃない。しかし警察が久良岐橋にあったんだからね。手が届きゃしない。もっともその時の成金は、みな終わりがよくないようだね。
 ◇
 植木さんの話はいくらでもつづく。まあざっと、こんな本牧村時代もあったという見本をここ掲げておく。
 ★ 明治22年4月1日「村制」が布かれて、それまで(明治4年5月戸籍法配布以降)の本牧本郷村と北方村とが併合されて、本牧村となった。それが、明治34年4月1日に本牧村が横浜市域に編入された際に、再び本牧町と北方町に分かれた。

昭和2年11月11日「浜のえがお(4)春は曙『本牧の夜桜』絵ぼんぼりの灯 花に映えて さんざめく人も麗し」
本牧の自然とチャブ屋のギャップを書いた記事。本牧の三渓園に続く桜並木の綺麗さや、都会にはない自然のありがたみ、幸福感を書き綴っているが、終わりには、本牧=チャブ屋の印象だけではないと書いている。

本牧といえばチャブ屋で代表される。現代人にとって、チャブ屋のフラッパーさんの一瞥の方が、三渓園の幽趣よりも有り難いかも知れぬ。
おまけに谷崎さんは、戯曲『本牧夜話』や小説『痴人の愛』に於いて、氏一流の手法で本牧を淫蕩な場所として、天下の人々に印象付けてしまった。
と、云って、私は谷崎さんを攻撃するものではない。誤り伝えられた本牧にも、こうした静かな屋敷町のあることを知らせたいばかりだ。

豆知識:「フラッパー」とは、若い娼婦を「フラップ」というスラングで呼ばれており、そのイメージは、夜になるとジャズ・クラブへ繰り出して挑発的なダンスを踊り、煙草をたしなんで不特定多数の男性との逢瀬を気ままに楽しむような、勝気な若い女性だとみなされていた。

一本、二本、三本、四本と、本牧の停留所から三渓園の方へ、私は道の両側に植わった桜の木の本数を、静かに口の中で数えながら歩いた。人通りのない或る朝のことである。九十九本まで数えたとき、「なんだ、櫻の本数など数えて、無粋じゃないか。櫻の道、花のトンネルの方が余程詩的な呼び方だ」と心の何処かで囁いた。私は数えることをやめにした。
 ◇
 自然が失われ勝ちな都会に、こうした長い桜並木を持つことは、本当に幸福なことだ。春光うららかにして、魂が浮き浮きする頃、…花びらの霞が一直線に三渓園の三重の塔に消えるのを見る時や、淡い春の月が咲き誇る桜花に微笑みかけて花影を道に落とし、ぼんぼりの灯がさんざめき、行く人々の横顔を閃光がホノ白く浮き出すのを見る時、ここは最も優れた「浜のえがお」だと思う。
 ◇
 この桜並木がたまらなく私の魂を捕えるのは、絢燗な花の頃ではなく、並木に沿う仁和寺垣の内から、真っ赤な椿が音もなく地に落ちて、逝く春の足跡を残し初夏に入る若葉の頃である。生命を象徴するように、生き生きとした葉桜に細い雨脚が降り注ぐ、真昼のこの並木に沿うた屋敷町静謐を、私はこの上なく愛する。そして、洩れ来るピアノのリズムもこの町にふさわしいではないか。
 ◇
 本牧といえばチャブ屋で代表される。現代人にとって、チャブ屋のフラッパーさんの一瞥の方が、三渓園の幽趣よりも有り難いかも知れぬ。
 おまけに谷崎さんは、戯曲『本牧夜話』や小説『痴人の愛』に於いて、氏一流の手法で本牧を淫蕩な場所として、天下の人々に印象付けてしまった。
 と、云って、私は谷崎さんを攻撃するものではない。誤り伝えられた本牧にも、こうした静かな屋敷町のあることを知らせたいばかりだ。
 -よしお-

昭和2年11月21日「浜のえがお(14)『小港の暴君物語』寄木細工の床に魔塵が揚がる 白臘の二の腕 夕映えの顔」
昔の本牧も良いがチャブ屋の本牧もなかなかという記事。本牧で高級海苔がとれることを知らない横浜人はいるが、本牧のチャブ屋を知らない人はいない。それほど、本牧=チャブ屋のイメージが、国内さらに海外まで浸透していると書かれている。また、当時のチャブ屋の価格や、雰囲気、記者の感想が絶妙に書かれていた。

明治維新この方、慌ただしい文化の夕立を息つく暇もなく浴びせられた日本人は、かなり多くの外来語を平気な顔で自分たちの国語の様に使っている。
 ◇
 「シャッポ」がフランス語、「ドンタク」がオランダ語だと教えられれば、なるほどとうなずく我々も、「ペケ」や「サランパン」など珍語に至るとそれが何処の国の言葉であるか、如何なる語源を有するかを究めんとするさえ面倒になる。
 「チャブ屋」の「チャブ」もまたその中の一つとして特異なるものであろう。
 ◇
 本牧の海から上等な海苔がとれることを知らぬ横浜人はいるが、本牧小港に全盛を誇るチャブ屋の存在を知らぬ者はいない。チャブ屋の小港か小港のチャブ屋か。古い言い回しだが、一口にこう定義づけておいて、簡単に結論を急ぐ。
 ◇
 ビール一本一円也。酒屋で買えば五十銭でお釣りが来るが、ここでは福助が通り相場だ。
 まあ野暮な勘定は抜きにして、カウンターに寄りかかったオカッパさんの両の腕が肩の付け根からむき出しで左右にブラ下がる光景は悪くない…と申しておく。
 ◇
 ベルギーの国境を委細構わず飛び越えた当年のドイツ軍の如く、小港に充満するオゾンを、我が物顔に占領したわが勇敢なるタイランドの無遠慮さよ。
 嬌風嬉雨だの柳路花明だのという在り来たりの形容詞は、彼等の雰囲気を連想するには余りに生々しい。
 ◇
 白臘の二の腕、夕映えの顔、アブサンのぐい飲み、狂楽のさんざめき。寄木の床に魔塵が揚がる。
 -禾 口-

昭和4年9月11日「チャブ屋の緊縮」
チャブ屋の飲食代が高いので値段を決めた記事。山手署は、26軒のチャブ屋主人を呼出して、ビール 80銭以内、サイダー 50銭以内、洋酒 50銭以内、コーヒー 25銭以内、肴(小物)30銭以内と決めて、客の見易い場所に掲示するよう通知したとの内容。

山手署では管内チャブ屋の飲食物が高過ぎるというので、九日午後二十六軒のチャブ屋主人を呼出して、ビール一本八十銭以内、サイダー五十銭以内、洋酒一杯五十銭以内、コーヒー一杯二十五銭以内、肴(小物)三十銭以内と定めて、客の見易い場所に掲示するよう厳達した。

昭和6年6月27日「ジョンソン博士チャブ屋見物 お客の様な気軽さで部屋から部屋へ」
外国から人身売買の調査で来日した際の記事。外務省、内務省は、ジョンソン博士を出迎え自動車6台を連ね郵船に乗り込み船内調査の現場を視察した。その後、一行は県庁に向かう予定だったが、ジョンソン博士が突如、本牧街を先に視察したいと申し出て急遽向かい、第二キヨホテルスターホテル梅の家ホテルの3軒を約20分で視察後、一行は県庁に向かった。その時のジョンソン博士と山県知事・林田警部長とのやりとりが次の通りで、無理がある苦しい答弁が書かれていた。

人身売買調査のために来朝中のジョンソン博士一行五名は、外務省の石川事務官、内務省草間、栗本博士らと共に、二十六日午前十時二十二分横浜駅に着き、出迎えの石原保安、赤穴外事各課長らの案内で、自動車六台を連ねて四号岸壁に至り、当日出帆の郵船龍田丸に乗り込み、荒水上署長指揮の下に署員の出帆間際の船内調査の活動ぶりを視察した。
 同十一時水上署に至り、荒署長から婦女の海外取引の事実の有無、誘拐、密航等について、矢継ぎ早に質問した。荒署長は「横浜港は監視が頗る厳重であるから、人身売買などを行う隙間がない」と説明した。
 一行は水上署視察後県庁に向かう予定であったが、ジョンソン博士は突如予定を変更して本牧エロ街の視察を先にしたいと申し出たので、案内役をちょっとまごつかせ等の場面を展開した。
 同十一時半、一行は吉田山手署長の案内で本牧小港のチャブ屋街を視察した。
 最初に視察したのは第二キヨホテル。博士一行は、あたかもお客の如くダンスホールを通り、中庭から酒場をざっと目を通し、直ちに階上に上がり各ルームを一々開けてみて室内を検分した。
 次にスターホテルを視察したが、「どこも同じ様だ」とダンスホールから各ルームをすっと見て歩き、最後に梅の家ホテルでは主人の居間になっている日本間を興味深そうに見て、ロシア婦人のアンナの姿が見えないので「何処へ行ったか」と質問し「朝が早いから寝ている」と聞いて肯き、入口に備え付けてあったネームカードを一つ取って、一行は外へ出た。
 第二キヨ、スター、梅の家の三軒を約二十分ばかりで視察を終え、一行は県庁に知事を訪れ、別項の如く山県知事、林田警察部長と県下の公私娼について一門一答が行われた。
 本牧の私娼群はホテルのウエートレス 知事さんの苦しい答弁
 県庁応接室で行われたジョンソン博士と山縣県知事との主たる問答は左の如きものである。…公娼と私娼とはどう違うかの質問には県庁側はちょっと面食らったらしい。
[問]本県では公娼を将来どうしますか。
[答]県会では満場一致で公娼廃止を可決しているが、政府の方針により早晩廃止する日が来るでしょう。黄金町の遊郭は臨時のもので、娼妓の数も統計をご覧の通り漸次減少しています。
[問]公娼と私娼の差はどうあるべきですか。
[答]公、私娼をなるべく少なくする方針で取締まっている。私娼は何処でも許可しない。本牧の私娼は開港当時からの特殊的な事情があり、現在は旅館営業である。女はウエートレスでこれを許可している。
 ここへ来る客は大部分外国人である。
外国婦人は二人しかいない。ロシア人が革命を避けて横浜に来たり、生活に窮してウエートレスをしている。
[問]私娼に鑑札を出したらどうか。
[答]それは出来ません。
[問]私娼が外出して歩くことはありませんか。
[答]ホテル街の他はやかましくしています。
[問]支那人の婦人が居るか。
[答]居りません。
 感想は何れ公表する
 ジョンソン博士一行は特別の任命を帯びて来朝したのであるから、調査後の感想については、今日は一言も言われない。この点は諒解して貰いたい。調査事項については何れ公表されるであろうと、川崎通訳官は語った。

豆知識:ここでいう「鑑札」とは、国が認めた娼妓(遊女)の証明書であり、チャブ屋を横浜遊郭と同格に認めて娼妓の人数を増やしたくなかったと思います。

昭和7年10月20日「横浜百景?のエース本牧」
不景気の中、チャブ屋だけは賑やかだとの記事。外人の公娼制度調査の対応で、県庁の役人が裃(かみしも)を着て案内し、チャブ屋は女を隠してベットも片づけていた。女性が見つかった時もダンサーで昼間は茶道や活花の稽古をしていると言う対応も決まっていたとか。当時、チャブ屋は約30軒あり女性は約300人いた。女性の稼ぎは、6割が主人で4割が自分の取り分。その取り分から電気代や水道代も取られお風呂代も取られるので同じなら広い銭湯の方がましと言って銭湯が賑わっていた。チャブ屋の土曜日は若い学生が多く早稲田の「都の西北」や慶応の「陸の王者」の唄声が響いていた。そんな、当時のチャブ屋の景気が書かれている。

「向こうに見える灯は本牧だ。真っ直ぐやってくれ」税関桟橋を驀然と走る自動車が、必然的に海中へ飛び込んでしまった。溺死してまで本牧へ行きたかった東京人の悲惨なる執心。チャブ屋も罪だが、酔いどれの眼を迷わせた鶴見の灯もひとが悪い。
 ひとが悪いと云えば、いつぞや日本の公娼制度を調べに来た外国の連中があったか、県庁のお役人が裃(かみしも)を着て案内したものだ。ちゃんと来るのが分かっていたから此方も用意周到だった。
 無論、女は隠した。ベットも綺麗に片づけた。万一発見されたら「私たちはダンサーです。昼間は茶の湯や活花のお稽古をしています」と、淑やかに申し開きすることになっていた。青い目をした小父さんたちは、感心して帰って行った。
 先ず軒数にして三十軒、人数にして三百人の女がいる。女たちは自給自足だから骨が折れる。稼ぎ高の六分は主人が取る。電灯料だって水道料だって女が払う。主人に云わせれば、稼ぐ舞台を貸してやるのだからそう言う割合で取るのが当然なのだ。だからこの辺の銭湯へ行くと、女湯がとても賑やかだ。浪花節など唸っている。家の湯に入っても湯銭を払うのだから、銭湯でのんびりした方がましだというのだろう。
 月末の土曜日の夜はさすがに若い人たちの天下だ。「都の西北」が聞こえるのは早稲田が勝った晩だ。慶応が勝てば「陸の王者」が華やかな灯の色を揺るがせてワンワンと響いてくる。
 震災前には支那人が群をなしてやって来た。しかし何処までも支那式で、一人が入って値段の協定をするのだ。その間大勢が表でワイワイ云いながら待っていた。浅ましい光景であった。
 然し本牧のチャブ屋はある意味に於ける横浜のエースだ。郭が忘れられ、待合いが閑却され、カフエーの時代となった長い時間を、チャブ屋は依然ながらの存在を明らかにしている。
 一日に十本のビールが出ればいいと云われる程、物の相場を超越した別天地だが、本牧の名は相変わらず中外に宣伝されている。エロのエース、そして?のエースだ。

チャブ屋だけは、取締まる規則がないので、規制が甘かったんでしょうね。
豆知識:「郭」=遊郭(公娼)、「待合」=(芸妓)、「カフエー」=(ホステス)、「チャブ屋」=(私娼):チャブ屋は、旅館であり、ウエートレスの自由恋愛とみなされていたからですね。

昭和8年12月7日「本牧の桃色御殿 山手署驚くべき秘庫を探る 会員は名ある有閑紳士」
チャブ屋よりも高級な社交場が摘発された記事。本牧和田で名士達が出入りする御殿があるとの通報が山手署に入った。その御殿は桃色御殿と呼ばれ有閑マダムが相手をする会員制の売春宿だったとの事。チャブ屋もビックリしただろう詳細の内容は、次の通りである。

帝都の有閑マダムの醜行が根刮ぎ暴露されたが、今度は対岸の火とばかり安心していたハマの有閑マダムに火が付き、そのエロ行状記とも言うべき享楽あくなき桃色御殿が暴かれた。
 本牧和田の長谷(仮名)方へ、最近お隣のチャブ屋より相当知れた「顔」をもつ連中の出入りが激しいとの風評が付近の話題になっているのを山手署が聞き込み、五日夜同家を襲い、女子三名を検挙、留置取調べたところ、桃色御殿の驚くべき秘密が判明した。
 同家は有閑紳士を会員とする享楽倶楽部で、会員から月五十円を会費とSて徴収し、日を定めて淫楽の世界を広げ、盛んにも風紀を乱していたもので、検挙当夜も某回送店主、市役所某課課長、某大商人があり、同署を唖然とさせている。
 山手署では、これを機会に風紀粛清のため不良有閑マダム征伐を始めると。

翌日の新聞では、各方面の名士達は山手署に呼び出されたが名誉の為に氏名の発表はしないと書かれていて、世の中いつの時代も「金」で守られるものだと思うと同時に、人間の欲は限りがないものだ思いました。
豆知識:「有閑マダム」とは金銭的にも時間的にも余裕があり、社交ダンスやパーティー、浮気など遊びに時間を使う夫人のこと。

昭和10年3月12日「ホンモクの王座 スターホテル競売の運命 借金が払えないで」
有名な、スターホテルが競売にかけられた記事。チャブ屋の中でも王座を誇るホテルが競売にかけられそうだ。経営者の内山盤根氏は、浅草の北仲町五寺崎士郎さんから三千円余の借金があり、返済できずホテルや家財道具一式が差し押さえられ競売にかかることになった。しかし、内山氏は家財道具は、妻の山内コウさんの所持品だと主張し横浜地方裁判所に異議の申し立てをした。いずれにせよホテルは、手放すことになりそうだとの内容。

享楽の巷、ホンモクチャブ屋街で王座を誇るスターホテルが競売の憂き目にあって注目されている。スターホテルの経営者内山盤根氏は、東京市浅草区北仲町五寺崎士郎さんから三千円余の債務があり、ついに建物、家財道具を差押さえられ、いよいよ来る十五日競売に付されることになり、大恐慌を来している。
 しかしホテル側では、差し押えを受けた家財道具は山内盤根氏の物ではなく、妻内山コウさんの物であると主張、コウさんの名で十一日横浜地方裁判所へ異議の申し立てをなしたので事件は粉糾し、裁判所側の態度が注視されている。

昭和10年11月9日「・ホンモク・に弾圧 チャブ屋街へ 当局断固取締り実行」
県保安課が規則がないチャブ屋を実態調査する記事。ダンスホールは、舞踊場取締規則、カフエー喫茶店は、特殊飲食店規則で縛られているが、チャブ屋だけは何れの規則の適用も受けていない。そのため、営業時間も深夜から朝まで営業し蓄音機や騒ぎ声が煩く付近住民が山手・伊勢佐木署に厳重に取締るよう要望の声が上がった。これにより、県の保安課が独自の立場で弾圧を加えることになりチャブ屋の実態調査を開始する。ずっと治外法権視されていたチャブ屋もいよいよ規則が適用されそうだとの内容。

国際人が桃色の夢を結ぶ港都ヨコハマの異風景小港、大丸谷に散在するチャブ屋街は、現在何の法規的掣肘を受けず営業しているが、ダンスホールには舞踏場取締規則があり、カフエー喫茶店には特殊飲食店取締規則がある。
 しかしチャブ屋だけは何れの規則の適用を受けておらぬため、夜がほのぼのと明け初める頃まで、蓄音機をかけて踊り狂っているため、付近住民は眠りを妨げられ、所轄山手、伊勢佐木署に厳重取締方を要望する声が、漸次拡大されつつあるのに鑑み、県保安課井上係長、矢下警部補は保安課独自の立場から、この方面に一大弾圧を加えることとなり、近日中にチャブ屋街の実情調査に乗り出す。
 永く治外法権視されていたチャブ屋街に突如恐慌の旋風が吹きまくることとなった。

昭和11年8月18日「張り切る桃色街へ 増設罷り成らぬ ホテル時代の筋違い」
オリンピックに向け増設したいチャブ屋の記事。実際には、第二次世界大戦の為、開催は中止となったが、その当時は昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催に向けて神奈川県も外国人用のホテルを湘南地区等に建設する予定だった。この波を利用して、本牧のチャブ屋街も再び外国人を大量に呼び込むためにホテル内の増改築を県保安課に多数届けられていた。しかし、県ではチャブ屋の増改築は認めないとした。普通の旅館には新営業をどんどん許可する方針であるが、普通ホテルを偽りチャブ屋みたいな怪しい旅館も届け出ているので新規許可は厳重に調査するとのこと。チャブ屋は、増改築が認められず困っているとの内容。

次期オリンピック東京開催に波に乗って、一九四〇年には世界各国から各国人がオリンピックめざしてなだれ込むが、県当局では、湘南地帯その他の景勝地に瀟酒佳麗なホテルを建設して、萬違算なきサービスをしようと種々斡旋につとめている。
 この世界的興奮の波を利用して、桃色国際街の本牧のチャブ屋では、この時を逸しては再び各国人の大量ハートが獲得できるものかと躍起になって、ホテル内の増改築を県保安課に願い出ているものが相当あるが、次期オリンピック開催期が近づくに従って、同様願出が山積されるものと見られ、県保安課を悩ましている。当局の伝統的取締り方針は、チャブ屋の増改築は今後絶対罷り成らぬこととなっている。
 しかし、オリンピックを機に普通旅館の新営業はどしどしこれを許可する方針であるが、これらのホテルにも相当インチキなものがあるので、新規許可の場合は厳重調査を行った上これを許す筈であるが、チャブ屋街はこの取締り当局の頑固さに早くも泣きベソである。
 ★一九四〇年(昭和15年)に東京で開催を予定されていた第12回オリンピックH第二次世界大戦のため中止された。

昭和12年6月10日「本牧からホテルの名を奪う オリンピックの外客に普通のホテルと混同されるおそれ」
チャブ屋の店名から「ホテル」を廃止する記事。昭和15年(1940年)開催の東京オリンピックで第二会場が横浜に決定された。県保安課は、外国人客が大勢来日する際、チャブ屋の店名に「ホテル」が付いている為、普通のホテルと間違える可能性があるので、チャブ屋街の店名から「ホテル」の名称を付けることを禁止した。当時の地図を見ると、確かに「ホテル」の名称が削られているので不思議に思っていたが、やっと理由がわかりました。

ハマの歓楽場として有名な本牧のチャブ屋が、東京オリンピックを契機にホテルの名を廃止することになった。
 県保安課は来る東京オリンピックに際し、横浜が第二会場に決定、外人客も主として横浜に滞在するものと見られるが、本牧、大丸谷のチャブ屋がいずれもホテルの名称を付しているので、真実のホテルと混同されるおそれが多分にあり、未知の外人に迷惑を与え国辱のそしりを受けることにもなるので、協議の結果断然チャブ屋街よりホテルの名称を抹消せしめることになり、九日それぞれ禁止の通告を発した。

昭和12年9月5日「ラーメン五十銭 これは何としても高過ぎる 本牧ホテルに猛省を促す案」
本牧付近の飲食代が異常に高いとの記事。本牧チャブ屋が国際的な歓楽街として有名になるにつれ関連業者の暴利がひどいと非難された。オリンピックに伴い外国人や地方からの来客があるので、神奈川県料理飲食業連合会は、警告的態度に出ようと幹部や同業組合間で対策協議が行われ始めた。その当時の意見や本牧チャブ屋地域の飲食代金が次のように書かれてある。

本牧チャブ屋街が国際歓楽街として有名な反面、最近業者の暴利ぶりが非難され、オリンピックや万国博を控えて多数外人客とともに、全国の内地人が第二会場見学に来浜するなどの建前から、神奈川県料理飲食業連合会では、近く何らかの警告的態度に出るべく、目下幹部並びに関係十数同業組合間に密かに対策協議が行われつつある。
 右は山手西支部料理業者百数名から取り寄せる出前が、例えばラーメン一個に付き五十銭、八十銭という暴利ぶりで、本牧方面の飲食業者が、年々ホテル業者とともに不振の度を増している実情と、数年間の統計からも、ホテル街のみがひとり暴利放題であることを傍観することは、ひいては業者全体に悪影響をもたらすものであるというにある。

昭和14年11月12日「本牧チャブ屋街に 消えるネオン燈 あたし達も国策順応に」
戦争に向け本牧チャブ屋も自粛体制に入った記事。昭和13年に愛国婦人会として本牧ホテル(チャブ屋)班が200人で結成された。その後から、チャブ屋のネオンサインが自発的に消されていった。一見、住宅街のようで、とても歓楽街とは思えない情景となった。自粛の意を表したと同時に電力を節電して無駄を排除して国策に順応した。また、チャブ屋通りのタクシーが小港通りに並んでいたが、これもガソリンの統制から段々と影をひそめて行ったとの内容。

本牧チャブ屋街にも時局の波が押し寄せて、赤青の彩色でまばゆかったネオンサインが自発的に消されたため、昨今では軒燈だけ白々としていて、一見住宅街の如く、これが歓楽街とは思えない自粛ぶりである。
 かようにチャブ屋がネオンサインをノックアウトした理由は、時局に目覚めて大いに自粛の意を表そうというのだが、それとともに電力節約の時代の掛け声に応じて、無駄を排除して国策に順応しようという意気を示したもの。
 さき頃まではチャブ屋通りのタクシーが小港通りに車輪を並べていたものであるが、これもまたガソリンの統制から段々と影をひそめて行く。

この記事をもって、神奈川新聞から「チャブ屋」の文字は、見つけられなくなった。

言論統制によるものと考えられます。

昭和16年 – 日本、対米英宣戦布告。
昭和18年 – 「小港ホテル組合」の名称を「山手旅館組合」と改名。
昭和18年 – 産業戦士憩いの家や戦時徴用工員寮等となり廃業になる。
昭和20年 – 横浜大空襲により全て焼失する。敗戦で焼け地が接収される。

このようにして「チャブ屋」の存在自体が消えてなくなりました。

▽但し、大空襲で唯一、スターホテルのみ残り接収中も「LIGHTHOUSE SCHOOL」として利用されていましたが、昭和53年に取り壊されてしまいました。(現在のイトーヨーカ堂裏)
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写真:Yohi Alumni Site

参考:「横浜貿易新報」に見る昔の本牧 編集・発行 須藤禎三 印刷・製本 フリーダム横浜店

チャブ屋の記事:神奈川新聞(戦後)はこちら

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