本牧グラフィティ"HOMMOKU GRAFFITI"

FENCEの向うのアメリカ・・・時代と共に姿を変える街、横浜「本牧グラフィティ」

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チャブ屋の記事:神奈川新聞(戦後)

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前回、神奈川新聞から「チャブ屋(戦前)」の記事を掲載しましたが今回は、「チャブ屋(戦後)」の記事を抜き出して当時のリアルな状況を調べてみました。文章の引用間違いや、抜き出しモレがあるかもしれない事をご了承ください。

現在の「神奈川新聞」は、次の様に変遷していますのでご注意ください。

明治23年 2月 1日~明治37年 6月19日「横浜貿易新聞」
明治37年 6月20日~明治37年 6月30日「横浜新報」
明治37年 7月 1日~明治39年12月 2日「貿易新報」
明治39年12月 3日~昭和15年12月12日「横浜貿易新報」
昭和15年12月13日~昭和16年12月31日「神奈川県新聞」
昭和17年 1月 1日以降       「神奈川新聞」

【チャブ屋の記事】

昭和26年11月5日「10年ぶり、名物チャブ屋復活 陰におどる利権屋 はね上がる地代 正に不景気どこ吹く風」
最初のチャブ屋は、1865年に出来た「外国人遊歩道」の沿道に建てた茶屋での私娼が始まりで、1882年の異国人相手に営業を開始した店がチャブ屋の最初と言われている。その後、戦争とともに1939年からネオンが消え1945年の横浜大空襲により全て消失した。開戦から10年後の1951年(昭和26年)新たに出来たチャブ屋の記事。戦前にチャブ屋を営業していた6業者が、場所を変え営業を再開したところ、1950年からの朝鮮戦争の余波でかなり繁盛をみせた。当初は、昔の風情を取り戻そうと復活したかも知れないが、やはり戦後で日本人は貧困だったため米兵相手の儲かる商売となれば新規業者も参入し対立が激しかったと思われる。再開したチャブ屋は、既に6軒から43軒となり接待婦は300名を超えていた。土地の値段も10倍以上となり、まさに戦後バブルで昔のチャブ屋の情緒は見られない状態となった。
※記事に出てくる「エトランゼ」とは、フランス語で「異邦人」や「海外からの旅人」の意味

本牧チャブ屋といえば昔から横浜名物の一つに数えられ、国内はおろか、遠く外国人により多く知られていた国際的な存在でもあった。このチャブ屋が十余年ぶりで復活。本牧の一角に真新しい豪華な洋式建築40余軒が軒をならべ遅咲きの大輪のように花やかに返り咲いた。場所は中区本牧町二丁目を中心とする電車通りの裏側一帯で、昔の小港、十二天のチャブ屋街(現在進駐軍家族ハウス)のあった所より約2百㍍西寄りの一角。昨年2月、往年の「キヨホテル」などとともに一流館に数えられていた某家の女主人(六一)などが中心で復活の話が進められ、6軒の業者でささやかに発足した。その後6月ごろ朝鮮景気の余波で思わぬ繁盛をみせ、時には殺到した客が廊下までハミ出すほどの賑わいを呈し、高級乗用車が昼夜を問わず門前市をなすほどの盛況だったという。

これが動機で、一躍注目の的となり、続々と開業希望者が群がりその後1年間に約7倍のホテルが軒を並べて建ちならび、現在建築中のものを含めて43軒に達するブーム・タウンを現出した。これらはすべて外人専用で、設備、様式とも第一級を誇っているもので、いずれも百坪前後ー2百坪の建坪を有する豪華版で接待婦は約3百名を擁している。

このチャブ屋ブームで喜んだのは地内の地主で坪千円内外の土地が1年間に10倍以上の値上りを示し、いまでは坪1万5千円出しても手に入らないという。そこで隣接の北方、小港町などの慣行地外へハミ出した業者も数件あるが、これらは今年末までに立退を命ぜられているので改めて慣行地の指定うけるべく活発な運動を起こしているとか。一躍十倍の夢を描いて地主、利権屋、有力者某々が舞台裏に入り乱れて暗躍しているとかの風評が話題を賑わし、つい先ごろはチャブ屋の組合が分裂、新旧の勢力に二分され、噂はさらに輪をかけて内部紛争の激しさを物語っているが、業態が派手な水商売だけに金銭の出入も多額にのぼり、組合でさえ常時数百万円の預金を動かしているというから、ボスや利権屋には格好のカモでもあるわけだ。

往年本牧小港界隈といえばとりもなおさず桜並木のかげにひっそりと建ちならぶ26軒のホテル、チャブ屋であり、”みなとヨコハマ”の縮図でもあった。そこにはエトランゼの旅愁があり、落はくの詩情があった。いま十余年ぶりで花やかに復活したが、戦後版のそれに昔の情緒は望めそうにもない。

昭和27年1月17日「幾何学的なハウス チャブ屋街の夢よ!今いずこ」
昔のチャブ屋街の場所は、米軍基地に接収されてしまった様子を書いた記事。戦前のチャブ屋街は、横浜空襲で焼き尽くされた。その後、接収により日本人は追い出され食料もなくトタン板の狭い家に住んでいる状況で、米兵は広い芝生に綺麗に建てられた住宅で夢のような生活をしていた。そんな接収地の中でも、本牧神社は手を付けずに取り残され、また戦前からコンクリート造りのチャブ屋だった「スターホテル」が唯一残っており子供達の集会所に改装された。また、米兵が持ち込んだ車の洗車や修理等の商売も繁盛し女性もたくましく働いていた。ちょうど、この頃から日本人でも、アメリカを憧れる人と、アメリカを嫌う人が分かれてきている。
※スターホテルの詳細は「奇跡の「スターホテル」」をご覧ください。

横浜の巻
本牧は横浜の鼻ッ先。戦前この辺一帯にたむろしていた本牧、北方かいわいのチャブ屋といえば国際的名物。それというのも近代語をもっていえば異人さんたちにとっては唯一のレクリエーション・センターだった。船が横浜に入港して来るとまず目につくのがここ。異郷の情緒みなぎったパラダイスというか濃絶な酔魔境は人の子の心を迷わせた。だから船員さんたちは上陸すれば、なによりもまず人力車を拾っての狂い走りで本牧に飛んだーしかしこうした情景ももはや昔の語り草に過ぎない。いま麦田のトンネルを出て千代崎、北方、小港から本牧にいたる一帯はことごとく戦火に焼き尽され、昔の面影を連想させるなにものも残っていない。市電が本牧を通過するとき、40がらみの乗客が相手につぶやいていた。
「十二天の第3キヨのおつねちゃんはいまどうしているかナァーいい娘だったけナァー」と。
市電小港停留所から二ノ谷にいたる一帯は進駐軍住宅街となっている。これは根岸高台に続いている。赤い屋根の家族ハウスの群れがそれぞれ黄、白、シルバーグレーの一色に軽く色どられて一望みわたす限りゴルフ場のような芝生の中に整然と並んでいる。10㍍幅もあるようなだだっ広いコンクリート道路が数十本住宅街と丘の起状をまろまろ縫って延々とのびている。幾何学的な美しさと意識を保った近代式住宅街は、ちょうどアメリカ映画でみるそれである。可愛いブロンド髪の女の子と日本人のハウスメイドさんが、片言まじりの英語で戯れている。

市電通りを境として、海岸よりエリア・ワン(AREA1)山寄りをエリア・ツーと外人たちは呼んでいる。両地区をひっくるめてナスクビーチという。第二次大戦の激戦地として知られた比島の海岸の名である。このエリアのセンターは小港停留所の前に位している高級車修理のガレージ、その隣に劇場、ストアー、PX、花屋など。ここにくるとアメリカの商店街の実景がそのまま日本にいてうかがえる。劇場をビル・チッカーリング・シアターという。ミドウェー海戦の航空母艦上で、日本海軍特攻隊の直撃をうけて戦死した一新聞記者の名前である。この立体ストアーにかこまれて、広々としたパーキング・ステーション(駐車場)がある。縦横に画された白線に沿ってフォード、スチュドベーカー、オールドモビル、クライスラー、ハドソン、ダッジ、そしてキャデラックなどおよそ数百台、流線型の車体をぴかぴかと光らせてぎっしりとつめかけている、このセンターの裏丘にはナスクビーチ・チャペル・センター(教会堂)の白い建物が一段と高いところに建って、遠く海を望んでいる。

ひところチャブ屋、ホテルが軒を並べ数百の遊客を呑吐していた海岸寄りは、どうなっているだろうか。金網をはりめぐらされた家族ハウス地区へは一歩も立ち入ることができないので、はっきりしたことはわからないが、ガードさんの話によると、本牧神社の鳥居だけが横倒しされて草むらの中にとり残されているという。家族ハウスの列にまじって、たったひとつ戦禍からまぬがれた建物がある。チャブ屋街ナンバーワンといわれたスターホテルである。今では立派なクラブに改装されて、ボーイ・スカウトやあちらのよい子たちの集会所になっているという。時代も変われば変わるもの。昼となく夜となく、美酒と嬌麗パラダイスをおう歌したそれも胡蝶の夢。今では星条旗が冬の大空高くへんぽんとひるがえっている。

戦後の本牧にデビューしたアブレ商売といえば、それはなんといってもモーター・サービス。あちらさんの高級車を専ら相手とした自動車洗い、自動車修理屋など、時代的要求とはいえ、大通りから狭い横丁にいたるまで、数十の大小工場が軒並みにひしめきあっている。タダのような水をジャージャーと15分か20分流して、それからボロでちょっとばかし磨きをかけて「ツー・ハンドレッド・エン・プリーズ、サンキュー」年のころ24,5と思われる娘さんが、腕カバーをつけた手で器用にドライバーを使いこなして、ドアを修理している。アメリカの将校さんが側でじっと彼女をみつめている。

本牧には最近スマートなホテルが多く目立ってきた。終戦時から道路工事でたんまりもうけたという某社が、市電大通りにリュウとした近代式オフィスのビルディングを建てて本牧っ子をびっくりさせたが、いつの間にか「ホテル」の看板を掲げて二度びっくりさせた。観光地でもなければ、駅前でもない、本牧。英語ホテルとは大分ちがった「本牧ホテル」の意義の解釈は、土地柄説明するに及ばないだろう。そのうち本牧温泉なんていうものをおっぱじめないだろうか、とは土地の人々の誰も心配してること。

麦田から本牧にいたる市電街は赤い旗、白いのぼりがぎっしりと並んでいる。ラウンドスピーカーから流れる音楽。市電のごう音。商人の客を呼ぶ声。さっさと街を行く女の背中で泣く赤ん坊の泣き声。なんとなくせかせかとしておちつきのない通り。しかしこの街には同じ新開地気分でも、野毛や南京街に印象づけられる躍動もなければ、精力的な油もない。ただ焦点のぼやけた平面図の中に、だだっ広い市電通りが一本の中心軸を保っているだけ。

はでな藍一色のオーバーにショルダーバックを肩から下げた女が、胸をはって歩いている。その側をゆく真赤なセーターを着た下駄ばき女が、嫉妬深い眼を彼女の方に向けながら、マーケットの人ごみの中にかけこんでゆく。そういう女が多い町、本牧の町。(YQ)
新相模風土記「本牧」より

昭和27年1月19日「40男に郷愁の街”小港の女”が”ハマの女”だった」
昔のハマの女(チャブ屋の女)とは、「小港の女」を示し、今の「ハマの女」との新旧を比較した記事。昔を思い出して「昔は良かったな~」的な話はいつの時代も同じである。しかしながら、男としては同じ日本人でありながら女が米兵の男に取られていく感もあり、より昔を良く思った内容だ。戦前のチャブ屋も、もともとは外人遊歩道から来ていて異国人相手の商売だったが、小港のチャブ屋は、世界的にも船員には有名で、また日本人も入れた。小説や歌「別れのブルース」でも美化され情緒が強調されていたのだろう。記事にも書かれているが、戦前のチャブ屋は、ビール1本でも大威張りで楽しめた男の娯楽場である。一方、戦後のチャブ屋というか「ハマの女」は、気性が強く化粧が濃く、タバコを咥え派手な洋服を身にまとい、更には日本人など鼻にもかけず、お金を持っている米兵を相手にしていた為、日本人男性にとっては屈辱的な気持ちがあったに違いない。その時代、女性は女性で仕事も殆んどなく生き抜くすべとして、強くならざるを得ない時代だったのもある。そうとは言え、かなり詳しく戦後の「ハマの女」が描写されている。

小港といえば、たいていの場合、本牧小港のチャブ屋を指す。小港が有名なのはチャブ屋があったからだ。小港はチャブ屋であり、チャブ屋は小港であった。その小港ときいても、いまの若い人たちにはなんの感慨も沸かないだろうが、廿年前の青年なら、横浜へ行って必ず一度は訪れて見たい魅惑の街だった。そこにはチャブ屋があったから・・・。そこにハマの女がいたから・・・。チャブ屋の女、港町の夜露に濡れた女、エトランゼの旅愁に宿る物語の女、それがこの街の名を高らしめた。小説のヒロインになり、歌に唄われた”横浜の女”というのはとりも直さず小港の女であり、往年一世を風びした「別れのブルース」の歌と詩の中には、この街の倦怠と落はくの情緒が綴られていた。

窓を開ければ十二天沖の海とメリケン波止場の灯が見えるこの街は、また本牧のハナを回って入港する船乗りたちの胸へまっ先に灯を点ずる。”みなと横浜”の灯でもあった。夜も昼もうたかたの青春が、青白い焔のように燃えさかる街、チャブ屋の街が小港である。いまは横浜接収地の一部にすぎないが、ここが戦前、日本はおろか異邦人の血を沸かせた開港以来の横浜名物チャブ屋の跡。手入れの行届いた芝生の陽だまりでは、無邪気なアメリカの子供たちが遊びころげているいまの小港では、石ころ一つさえ昔日の面影はない。けだしつわものどもが夢の跡である。

ビール1本が1円で、踊ったり語ったり、大威張りで何時間でもネバれた嘘のような想い出。そういえばしみじみと話のできる女もいた。「キヨホテル」「お浜さん」「スターホテル」・・・中年以上なら知らない人でさえ、聞き覚えのあるよび名がいくつか思い起される。桜並木の陰にひっそりと建ち並んだ24軒のチャブ屋、小港は40男の郷愁の街。

敗戦直後、ふたたび”横浜の女”が話題になった。だがこれは往年”小港の女”で代表された横浜の女とは似ても似つかぬ戦後派で、いわゆる”洋パン”である。焼け跡の廃墟の中から、手あたり次第の直輸入モノで、戦後のトップモード、チェックのロングスカートやウールギャバ、ショルダーバッグなどをいち早くせしめて、当時はまだモンペも脱げなかった若い戦災婦人の目を見張らせたものだった。連合軍家族の猿真似や、宝の山のPXあたりを漁って、目もあやな原色モードの先鞭をつけ、パンパンモードを築き上げたのも、オキシフルで髪を赤く染め、パングリッシュという奇妙なアメリカ語?を編み出したのも必要に迫られた”横浜の女”たちだった。往年の情緒は一朝にして崩れ落ち一時は全市がチャブ屋化するかとさえ危ぶまれた。そこに戦陣訓やブギウギで育てられた40前の青年たちが小港の女を知らず”横浜の女”に愛想をつかした所以がある。

そこで”小港の女”にとって代わった戦後の”ハマの女”とは・・・。昨年の春、横浜市警で中区本町通りから馬車道にかけて洋パンの一斉取締りをやった時の話だが、ベタ塗りのルージュにくわえラッキー、肩かけカバンというそれ者の登録商標をはったような一群の女たちが、次々と屏風浦行きのトラックに押し上げられていた折、ときならぬ騒動を尻目に、足の爪まで真っ赤に染めた女が颯爽と通りかかったと想像ください。パラパラッと立ちはだかったのが制服警ら隊員。(まずここまではナイスだ)柳眉を逆立てた件の女「あたいはオンリーワンよッ」と鶴野一声、そこでお巡りさんはハタと当惑した。わかったような、わからんような複雑な面持ちでモタモタモタ。車上の女が「何いってやんだいバタフライッ」と、にくらしげなバ声を浴びせかけたときにはすでに後の祭。女はサッと関所を通り抜けていた、という話。

”オンリーワン”という洋パンの改良種?それは位人臣を極めた横浜の女の称号、国籍不明の女。風紀条例や伝染病予防法も免疫の特製品。これが、いまの横浜をかっ歩している”横浜の女”の代表だ。出身は同じでも、いまでは流しの女と互いに軽べつし合い、ののしり合ってすさまじい女の闘いに勝利を得ている。変てこなものが出現したものだ。横浜の記者仲間に「笑いが止まらねエ」という流行語があるが、まったく笑いが止まらない話だ。「オンリーワンだ」と鼻をピクつかせる女、これが”小港の女”にとって代わったいまの”横浜の女”である。そこで「昔はよござんしたねエ」と嘆くお年寄りが多いのも無理からぬことではなかろうか。(ED)
新相模風土記 横浜の巻(11)「小港①」より

昭和27年1月22日「チャブ屋街変還記 昼はさびしい戦後派の女人群」
昔のチャブ屋の起源から始まって戦後のチャブ屋の衰退が始まりそうな頃の記事。これは、チャブ屋の歴史が分かりやすく、そして簡素にまとめられている。外国人遊歩道から始まり、チャブ屋の語源、戦前チャブ屋の終わり。そして、戦後のチャブ屋の始まりから終わりに向かっている状況が書かれている。翌年には朝鮮戦争も終戦を迎える状況と日本の経済も復興し成長した状況で米兵にとっても料金が高くなって来たと考えられる。また、当初の戦後は、日本の女性も仕事もなく食べる為に必死だった時代であり若い女性もチャブ屋で稼ぐこともあっただろうが、チャブ屋で働かなくても食べられるくらい日本も復旧し、記事の時はチャブ屋で働く女性も男性にとっては、あまり興味がないタイプに変わってしまっている様子が書かれている。逆に考えると、男として「そろそろ日本人も相手にして欲しい」という裏返しにも聞こえる。

本牧小港のチャブ屋は、その昔外人専門の私娼窟として発足した。それ以前は、渡来外人の遊歩区域として開港初の條約で規定された道幅3間、延長2里、12町の外人通歩道の一部にすぎなかった。この区域内に居酒屋式の休憩所が設けられ、土地や近在の娘たちがようやく外国人に接しはじめて、モグリの休憩所やアイマイ屋に発展して行き、これがチャブ屋のはじまりである。チャブ屋とはこれらの休憩場がチョップ・ハウス(簡易食堂)と呼ばれていたことから、リキシャマンが使いはじめた造語である。

明治十年ごろには、この休憩所も30軒ほどになり、同15,6年ごろから半公然的に売笑が行われ、新しく遊歩道設置以来の旧家、本牧天徳寺下の桜屋付近の水田を埋めて春木屋と称する飲酒屋が出現、次いで小港の大黒屋、時川が完成。上台へは梅木。北へ大野屋などが店を構えて、媚を売る女を持らせ、内容外観ともに組織的な営業が始められた。これが十年後にはさらに発展して本牧に30余軒、北方に10軒、石川町、地蔵坂、根岸、柏葉の遊歩区域ぞいに7,8軒、元町の裏通りに十数軒、大正に入っては中華街付近に8,9軒、関内に10軒、前田橋通りには外国婦人のみを置いたチャブ屋が3,4軒出現した。家名も〇〇ハウスから〇〇ホテルと改称され、東洋の開港情緒をからませて、時代時代の変せんと繁栄を繋ぎ、世相風俗の上に強い独尊的な存在を示し、ここに図らずも横浜繁昌記の尖端を担う結果となった。

大正初年に至り、氷見遊郭やモグリの異人屋を合せると市内60余件、ここに持る女3百数十人という事態にようやく手を焼きはじめた警察当局が、全市に散在したチャブ屋を本牧小港、大丸谷の一定区域内に封じこめた。一方業者側では弾圧を避けて、保険組合などの自衛組織を作って自発的な取締に当たり、過去における特殊チャブ屋情緒の基礎をなさしめた。爾来30年、小港はそれゆえに人にも知られ、国際的な横浜名所にまで発展した。だがここの歴史も、軍国日本の脅威が最高点に達した昭和16年、遂に時の流れに抗しきれずに費え去ってしまった。

戦後の動揺が一段落した昭和25年6月、絶えて10年ぶりで、こんどは本牧二丁目に新しいチャブ屋が建ちはじめた。最初はたった6軒、それでさえ「時代が変わったから、昔のように行くまい」と経営が危ぶまれたものだった。ところが思いがけない朝鮮動乱の余波に乗って大繁盛、当座は門前市をなすほどの盛況を示し、またぞろ世論の注目を浴びるところとなった。各地の野心家が雲集、1年後の現在では、百坪ー2百坪の大きな洋風建築ホテル42軒がずらりとならび、堂々たる陣容を誇るに至った。

お陰で地価は一躍十倍には上がる。大ボス、小ボスに利権屋が入乱れてやれ慣行地指定の組合のと、舞台裏の明動暗躍に火花をちらし、組合内部では一部の老舗と新興業者との分裂騒ぎ、地盤割りと、相当賑やかなコップの中の嵐が吹きまくったものだった。ようやく今年に入って地元某有力者の仲介で、地元の弁護士を新組合長に迎えて内紛もようやく納まり「お互いに弱い稼業だ仲よくやろう」ということになった。ところがこのブーム・タウン、ちょっとした西部劇に出てくる新開地といった感じ。色とりどりのモルタル建築に横文字の看板。一雨降れば道路は泥沼に化すという艶も情緒もお構いなしの戦後型。店主の色分けを見ても昔の伝統を持っているのはたった3軒。あとは一かく千金を夢見る新店ばかり。なかには東京新橋の芸妓屋さんが共同出資で開いたという店もある。

ところで新興チャブ屋の女だが、これもご他聞にもれず種々雑多。昔は殆んどが千葉、東京と一部山形あたりの出身者だったというが、いまは国内人種展を開いてもおかしくないほど各地も女が集っている。夜はとにかく、昼間などにいまのチャブ屋街をそぞろ歩いたものなら出っ尻、出っ腹、舶来のナイロンの靴下やパンプスの高級婦人靴が余りにも不健康に映ずるほどの頑丈な婦人・・・そんな女があまりにも多い。「ワラ草履でもはかせて、も一度畦道を歩かせてやりたい」とふとさみしくなる。そんな女ばかりだ。昔を知っている人には叱られそうだ。なんとも致し方ない。これが一晩が、ドルにして15㌦、円なら3千5百円というから「夢よもう一度」とためいきも出るわけだ。

今では日本人オフ・リミットだったが、そうそう続くわけがない。ぼつぼつ日本人も歓迎しはじめた。「昔のように日本人七分の外人3分、というお客の色分けになる日も間近でしょう」と一部業者はすでに準備をはじめている。(ED)
新相模風土記 横浜の巻(12)「小港②」より

昭和27年1月24日「昔の夢”お浜さん”今はバイラーの巣食ら街」
戦前のチャブ屋で世界の船員に名を知らしめた”お浜さん”の話と、戦後のチャブ屋の業者が金欲に走った状況の記事。戦前のチャブ屋では、女の奪い合いでアメリカの船員が3人を殺害して日本で始めて外国人が処刑されたくらいしか刃傷沙汰がなかったと書いてある。それにしても、3人を殺害したのであれば、それくらいではなく大沙汰にも思えるのだが。そして、戦後の今のチャブ屋ときたら闇でお金儲けしている悪の商売になっていると書かれている。また、戦前の”お浜”さんの話になり、その豪華さと、その後引退して曙町でカフェーを始めて、今では磯子区で静かに暮らしているとある。しかし、その後の新聞では、また小金町でバー「浜子」を開店し、昭和44年3月3日に、そのお店で殺害され犯人は不明のままである。以前からの記事もそうだが、戦前のチャブ屋と戦後のチャブ屋を比較して「昔は良かった」みたいな記事が多いのは確かである。
※お浜さんの詳細は「メリケンお浜の一生」「消えた娼婦たち(檀原照和)」をご覧ください。

いつの時代のどの国でも同じように、女と酒の世界には必ずいろいろな犯罪が捲き起こされている。この街の歴史が開港以来の伝統を持っている反面には、犯罪の歴史もまた開港当時から記録されている。特異なものには、明治32年7月17日午後5時ごろ、当時居留地133番地のチャブ屋で、女の奪い合いに端を発し、米ニューヨーク州船員ロバート・ミュラー(38)が、同国人の船員ネルソン・ウォード(38)とチャブ屋の女将お末、麗女お萩の3人を殺害、横浜裁判所で公判が開かれ、上告までしたが同年8月19日死刑を宣告され、翌1月12日東京市ヶ谷監獄で処刑されている。これは日本の法廷で裁かれ、処刑された最初の外国人で、当時全国に話題を提供したと伝えられている。またこの事件で、逆に全国から注目されるという効果もあったわけである。その後はとり立てて生々しい事件もなく、ありふれた酒と女をめぐる軽犯罪の程度であった。もっともそのころは廿歳前後の若い者は殆んど出入りしていなかったし、従って戦後の新興花街にあったような血なまぐさい刃傷沙汰などは思いも及ばぬパラダイスでもあったようだ。

ところが、いまのここには俗にバイラーと呼ばれる一群の男が巣食っている。いわゆるポン引きである。輪タク屋あり、運ちゃんあり、中には伊勢佐木町あたりまで出張している本格的なものまで数え上げると。相当な数に上っている。朝鮮ブームの腐れ縁をつくったのだ。いまでは3割のピンはねが不文律になっていて、5日-1週間という逗留者の場合には、その期間中毎日割前を集金?しているというから、たまりかねた業者から悲鳴が上がるのも道理。目下頭痛の種になっている。その他ドル買い、麻薬屋、差し屋といわれるヒロポン供給者等々が闇中に食指を動かしている。ヤミ桂庵も出没して、児童福祉法や職安法違反の種をまいている。ともあれいまのままでは当分昔の夢は再現出来ない。もし業者たちが昔のチャブ屋を復活させたいのなら、これらの環境を一日も早く、しかも自主的に精算することである。でないと近ごろ世評に高い黄金新道や末吉町界隈と同工異曲な日陰の街になりかねない。

さて、これまで筆を進めた以上一度はふれておかなければならない名物女が一人いる。いまもなお健在で、磯子区内に住んでいるが、話はすでに時効に属するので、この老女(57)まずは昔語りとして許してもくれよう。その人の名は「お浜さん」当時本牧のお浜さんといえば日本よりむしろ外国の船員仲間(特に高級船員)に人気があったという国際的な人気者。まずは全身から高価なコティー香水を発散させ、お浜さんと夢を結んだ者はその後の2,3日間このコティーの移り香が消え去らなかったという豪勢さだ。気前よくて、侠気があって、彼女だけには金の力も及ばなかったというこの世界では珍しい存在。そのかわり気に入られたが最後、2日でも3日でも離さないばかりか、飲ませて食わせて、情のたけを尽くしてくれた。という熱狂的な反面があり”本牧のお浜”の人気は相当なものだったらしい。ところがそのように名利を超えた一面にも有力なパトロンがあって、後日「キヨホテル」を出て曙町(現中郵便局付近)にカフェーを開業、マダムに納まって世間をアッといわせたもんだ。このころから彼女の奇行もさらに輪をかけ、こんな話がある。

当時銭湯が5銭のころ、彼女は50銭玉を奮発していた。いよいよ入浴の段になると、流しのまん中へ仁王立ちになって、頭からジャンジャン陸湯を浴びる。石けんの泡は飛ばすで、はたの者は大閉口、おまけに長湯で傍若無人に振舞うので、すっかり敬遠され、遂にこの上客もオフリミットの札を下げられたということだ。その他にも「五十銭銀貨の秘し芸」などが有名。ただしこれは知る人ぞ知るで、とかく話題の女性であったらしい。この人もいまではすでにコティーの香りも消え失せ、市弁の一老婦人として静かな余生を楽しんでいる。

こう回想して行くと、何もかも昔はよかった。これは反面「昔の横浜」と「いまの横浜」の相違でもあるようだ。この10年がこんなにまで横浜を変貌させたわけだ。最近のヒットソングに「上海帰りのリル」というのがある。この歌の作者は「上海リル」を横浜の巷に探し求めようとしているのが、この歌のイメージはやはり昔の本牧小港でなくてはピンとこない。トンコ節が幅を利かせている当節のキャバレーには、とうていリルは見当たるまい。”誰かリルを知らないか”それは40男のはかない願いでもあろうか・・・。もう一度呼び戻したい夢ではある。(ED)
新相模風土記 横浜の巻(13)「小港③」より

昭和28年9月5日「崩れそうにない殿堂 だが”救い”のある本牧の女たち」
現在のチャブ屋で働く女性を調べた潜入レポ的な記事。戦前のチャブ屋から赤線のような売られて借金を背負うような場所ではないが、家族等の諸事情によって働いている女性も多くいるだろうと書いてある。世間からの冷たい眼もあり、また外人と業務的に接しているだろうと想像しいている。ただ、業務を離れたら普通の女性であり、記者は彼女達と色々と楽しく会話をしたいと考えている。そろそろ朝鮮戦争も終わり不況な状況からチャブ屋の経営者も日本人を相手に商売したいと思っているが、まだまだ兵士から稼ごうとしているバイラーがいて日本人がチャブ屋に入れるには先のことだろうと書かれている。また、世論や地域住民からの反対の声も上がってきており売春禁止も検討されだした旨が書かれている。

横浜の国際的名物、往時の本牧は男ごころを興廃の情緒の底に誘いこむ酔魔境としてうたわれたものだったというが、窓をあけても港の見えない現在の本牧界わいからは、明治生まれの人たちの郷愁はオフ・リミットされているようだ。アコーディオンプリーツの裾さばきも軽々と、見上げるような水平の腕の中でステップをふみ、屈託なく笑い、かつ飲んでいる女たちは、夢二調「夜霧にぬれて立つ海の女」ならぬ、サッソウとして頑健な容姿と体であった。42軒のホテルに働く280名の彼女たちは、職安法の関係から周旋屋などの仲介は避けるので友人の紹介や同郷関係が大半。募集広告によるものは少ない。公娼制度廃止で前借の習慣は表向きはなくなったが個人的な事情から復活の傾向にある。いまだに「かかさん私しゃ売られて行くわいな」式の、子供を私有物と考える親の無知や、変態的な親孝行主義からか、一家の支柱となって働きに来る者が少なくないという実情では、この慣習が消えることはないだろう。ただし昔のようにその金で体を縛ることはない。行動は本人のお気に召すままとは経営者の弁。

郷里に仕送りし、また更生資金を貯蓄する者もあるそうで、一部を除いて苦しい職業戦線というわけだが、たとえどんな理由であろうとも、貞操の切り売りで収入を得ることの罪悪感から、彼女たちに対する世論は冷い。事実、ホールのまわりに居流れて、客が入ってくるやスっと機械的に立ち上り、半眼をとじて踊り始めたり、寝巻姿の外人と階段を下りてくる風景はあまり気分のいいものではなかった。とはいえ、服装は案外地味で原色は少く、みんな素直そうな眼をしているし、案内された一室の調度の落着いた趣向つつましやかな女らしい彩りなどをみると、特殊婦人と一般女性という距離感をのけて、営業用でない彼女たちと楽しく話しあったり、生きることの厳しさを一しょに考えてみたいという気持ちにかられた。これは別に同情でも好意でもない。「話しあうこと」の必要性と、その結果何か得ることができそうだという、ちょっと明るいものを感じたのである。

営業の相手は95%がアメリカ人1時間1,000-1,500円、1泊3,500-4,000円で収入は業者と折半。塵一つ落ちていない廊下を挟んで整然と部屋の並んだところは上級アパートのようで、住宅困窮者にはちょっと見せてあげたいくらい。一階の半分と階上が部屋で彼女たちは一人に一室ずつあてがわれている。室内の構造ばかりでなく「検診は毎日」というのが経営者の自慢であった。とはいえ、紅燈の下、悪の華の温床の例にもれず、ここにもバイラーと呼ぶ、いわゆるポン引の一群がいる。朝鮮ブームで国連軍兵士が門前市をなす大繁盛に日本人は全く影をひそめ、専ら外資獲得の青春貿易市場となったのが、その後の不況でドルの投下量も減少、そこで情調こまやかなりしころの日本人歓迎の姿に戻りたいのが組合の意向だが、バイラー達の金使いの荒いアチラさん歓迎なので日本人は恐れをなして近づかない。しかも業者の中にも気むずかしい日本人よりも客扱いが容易な外人を喜び、客集めのためピンハネを覚悟で準専属のバイラーをおく者もあるので「健全な慰安地域」建設への歩調がそろわず目下頭痛のたねだそうな。

「いすわり運動 なっとくゆかぬ業者の弁」
だが経営者側からみて健全かつ衛生的であろうとなかろうと、世論はこうした区域の存在んは反対であり、集団売春壊滅ののろしは上っている。経営者側はモチロン売春禁止法絶対反対で旗じるしに日く、人間生活に性の営みがある限り、衛生と風紀の上から特殊区域は必要であり、やるならモグリや青線区域の取締りを厳重にしてほしいと、某代議士らを通して赤線区域維持案の国会上程も運動中とか。

なるほど、これは筋のたった一里である。散在する売春の害は恐ろしい。けれど、田んぼの中に隔離された江戸の吉原遊郭なら知れず道路一つへだてて一般家庭と向き合った特殊区域なるものが、風紀上どれほどの功績があるのだろうか。母親が子どもへの悪影響を嘆く中、家庭の不和を訴える妻の声は日毎に高まり、男性の本能満足のために女性は商品化され、本来男女の愛情の発展によって行われるハズの性行為が堂々と営業化されている。これらの納得いかない現象は、どう解明されるのだろう。「パナマ」「ナポリ」等々欧米地図を立体化したような日本の国内にありながら日本文学の懐かしくなるようなネオンの光に映し出された建物の列は、ちょっとやそっとの売春禁止をめぐる攻防戦には微動もしないだろうと思われる堂々とした容姿で、みこしを据えていた。(増田夏江記)

【参考】
昭和25年(1950年)~ 昭和28年(1953年)朝鮮戦争

昭和32年(1957年)売春防止法によって完全に消滅した。
昭和33年(1958年)猶予期間を経過し赤線も廃止された。

昭和40年(1965年)米軍がベトナムに上陸した。
昭和48年(1973年)米軍がベトナムから撤退した。

昭和33年2月13日「旅館に生まれかわる チャブ屋街も一せい廃業」
いよいよ売春防止法によって、戦後のチャブ屋も風俗営業から普通の旅館へと姿を変えることになった。この記事を最後に、神奈川新聞では「チャブ屋」の言葉が消えた。以前にも聞いた台詞と同じだが、戦後のチャブ屋は普通の旅館に戻すと言っている。

中区本牧ホテル業組合(竹村字免組合長)24軒は、11日の総会で「今月末で風俗営業を廃し、旅館として出発する」ことを決議、13日中に廃業届けを山手署に出すことになった。これで明治いらいの本牧チャブ屋街も大きく姿をかえるわけだが、200人の従業婦は全員店をやめ新しい職につく。郷里に帰ったり結婚するもの、2,3あるらしいが、この地区の従業婦は借財もなく、相当の貯金をしているものもいるようで一般の赤線とは異なった事情にあるといわれる。

外人客を主な対象とした施設は旅館として適切なものに改装、団体客にも泊まってもらえるような完備した施設にしたいといっている。

以上で、神奈川新聞で戦後のチャブ屋についての記事は、売春防止法によって普通の旅館に戻り消えてしまった。どの記事も昔の戦前にあったチャブ屋は、情緒があり懐かしんで「昔は良かったな~」と戦後のチャブ屋と比較する記事ばかりだった。それと同時に敗戦によって日本人は貧困生活で明日の食料すら心配する一方で、豪華な生活を送るアメリカ人を羨ましくも憧れていたのだろう。当然、米軍なので男性が多く、それを相手に商売する若い女性達はたくましくもあり、男性から見ると日本の女性を取られたという気持ちがあったと思う。よって、当時の記事にもチャブ屋の女性を下げすんで見る様子が分かる。とはいえ、朝鮮戦争がきっかけとなり復活した戦後のチャブ屋も終戦と同時に客足も減り、日本の景気も良くなった頃から世情も売春反対の声が強くなり、戦前(1882年)から続いた本牧チャブ屋は、戦後(1958年)に76年を経て姿を消したのである。

しかし!

本牧のチャブ屋も普通の旅館になったと住民も一安心してた頃、ベトナム戦争で米軍がベトナムに上陸したのである。ベトナム戦争中に短い休暇を得た軍人は本国ではなく本牧界隈で遊んで、また戦地へ戻るなど本牧の基地も騒がしくなって来た。そうなると、数年前に普通の旅館に戻ったはずの元チャブ屋街には、外人相手のスナックやバーが立ち並んできた。記事によると、売春婦も横行して昔に逆戻りしたのである。チャブ屋という言葉は使われていないし、少し状況は違うが米兵と酒と女が問題視され、同じような状況なので以下の記事も掲載する。

昭和42年7月7日「夜どおし どんちゃん騒ぎ 本牧一帯の外人専門飲食店」
米兵相手の店が建ち住民が困っているという記事。朝鮮戦争も終戦を迎え、売春防止法によりチャブ屋も消えて静寂な街を取り戻したが、今度はベトナム戦争が始まり、そのベトナムに行ったり戻ったりする米兵が増えた。当然、死を覚悟しての兵士なのでひと時の休暇であれば、酒や女など盛り場で騒ぎたいのは当然だったと思う。そこで商売繁盛で儲けたいのも当然だろうし、地元住民が迷惑なのも当然である。想像であるが、軍基地がある地域は日本もそうだが、世界各国で同じような環境だと考えられる。

外人相手の深夜飲食店街をもつ中区本牧町1帯で「明け方まで騒がれてはたまらない」と市民たちが”平穏な生活”防衛に立ち上った。6日夜には被害者大会も開かれ、気勢さかんだ。

本牧飲食店街には約40軒の深夜営業の店があって、ほとんどが外人相手。それもベトナム帰りの米兵が多く、夜10時ごろから騒ぎがひどくなって、明け方まで続く。近くの市民の話だと、若い接客の女性もまじえた騒がしさもがまんできないが、そのうえ玄関わきに放尿されたり、庭にはだ着類を投げこまれたり、ひどいときには酔った外人が屋敷内にはいり込むこともある、という。入院患者をかかえたお医者さんが、たまりかねて南区へ引っ越した、という例もあるほどだ。

しかし最近、この飲食店街でさらに20店ほど店がふえそうな動きもあるという話が伝わったため、住民たちも生活防衛に立ち上った、と代表の石川平八郎さんは説明している。

昭和42年9月27日「目にあまる”本牧族” スナック・バーにたむろ 徹夜営業、やめさせて 地元の陳情 市会第一委乗り出す」
本牧1丁目の老舗店で夜に騒がしく地元住民が一掃しようと求めている記事。風俗営業法で一掃しようにもなかなか法的には、難しいと書いてある。それにしても米兵はもちろん、東京からも集まり、喧嘩やバンドの騒音、売春婦などには地元住民も大変だったと思う。記事では、イニシャルで書かれているが以下のお店と想像が出来る。「N」だけ不明。

「G」= GOLDEN CUP(ゴールデンカップ)
「I」= ITALIAN GARDEN(イタリアンガーデン)
「S」= SHUFFLE(シャッフル)
「N」= 不明(ANEXやV.F.W.があったのだが・・・)

『スナック・バーにたむろする深夜族の狂態はめにあまる。これらの店の深夜営業をやめさせてほしい』という陳情が、26日の横浜市会第一委員会(小俣健次郎委員長)で取り上げられた。問題の場所は、中区本牧の市電小港停留所一帯。このため同委員会は暫く現地を視察。場合によっては風俗営業法の改正で”いかがわしい店”を一掃するよう国に強く要望する。

地元民から出された陳情書によると、付近は戦前「本牧ちゃぶ屋街」として有名だったところ。赤線廃止後は静かな住宅地に変わっていたが、40年ごろから「スナック・バー」と称する軽飲食店が次々に開店。本牧1丁目の「G」「I」「S」「N」などが”しにせ”で、いまでは麦田トンネルから小港におよぶ市電通りの商店街を中心にバー16軒、スナック・バー39軒がひしめいている。

ほとんどが夕方5時から朝6時半ごろまで店を開き、東京から集まる若者、外人もまじえた”本牧族”で異様なふんいきだという。真夜中の放歌、けんかにおそれをなした医師は、十数年親しんできた家を捨て郊外へ移転したほど。ミュージックボックス、バンドの深夜演奏も安眠をさまたげる。不良外人、売春婦の横行で風紀上の問題も見のがせない。

市衛生局の話では、スナック・バーはいずれも簡易飲食店として許可をとっており、営業時間は無制限。食品衛生法の立場から設備さえ整っていれば、許可せざるを得ず、ことしは6月までに8件の新規開店があった。東京都はこの夏問題になった”原宿族”の追放のため、同地区に文教地区条例を適用、今月16日の告示で深夜営業を追い出したが、本牧一帯は市電通りにあり、県条例による文教地区の指定は無理。建設省が小売店舗地区に指定すれば、深夜営業はできないが、これも既存のものには適用できず痛しかゆし。

簡易飲食店は「おもに主食を提供する」ということで許可されているが、スナック・バーの実態は酒食お提供。そこで同委員会は。飛鳥田市長を通じて県に行政指導の強化を要望。犯罪防止についても県警、山手署に強い取り締まりを望んでいる。

昭和42年10月2日「深夜の本牧飲食街を視察 横浜市会第一委 夜明けまでジャズ 米兵、若い女いっぱい」
横浜市会委員長が現地視察した記事。この頃は、車乗りの”ナポレオン党”、グループサウンドの”ザ・ゴールデンカップス”で本牧は、テレビにも取り上げられ若者達の流行の最先端の街となっていた。有名人では、美空ひばり一家をはじめ、力道山、勝新太郎、石原裕次郎、石原慎太郎、三島由紀夫などの著名人がよく足を運んでいた。有名なのは、北野武も若いころにライブハウスに入ろうとしたが怖くて入れなかったと言っている。住民達は散々だったと思うが若者達には「憧れの街 本牧」だった時代である。

「風紀が乱れて困る」と地元から陳情の出ている中区本牧の深夜飲食店街を1日未明、横浜市会第一委員会(小俣健次郎委員長ら12人)らが現地視察した。

本牧の市電小港停留所一帯は40年ごろからスナックバーやバーがつぎつぎと開店。現在55軒がひしめき深夜から夜明けにかけて外人を交えた”本牧族”でにぎわっている。”女性同伴以外はおことわり”にしている店では、男性だけの視察団に迷惑そうな顔をしたが、店内にはいってみるとジャズの曲が流れ、米兵と日本の若い女でいっぱい。女性の多くは中華街や伊勢佐木町などのバー、キャバレーのホステスたち。米兵は土曜、日曜が休みとあって横須賀、厚木、座間の各基地からきているという。

乱ちき騒ぎはみられなかったが、報道陣の取材を拒否しようとした店もあり小俣委員長は「拒否しようとするのだから、その裏にやましいことがあるとみてもしかたない」といっていた。

結局のところ、チャブ屋は「外国人遊歩道」から発祥し、太平洋戦争によって消失し、戦後の接収で外国人用に復活し、朝鮮戦争の終戦と売春防止法で消失した。しかしながら、ベトナム戦争で、チャブ屋街ではないがスナックやバーの街が復活した。その後、接収も解除され静かな街に戻ったと思ったらマイカル本牧が誕生し当時は、ディズニーランドの来場者を上回る人が全国から集まった。そして、バブル崩壊とともにマイカル本牧も消失した。こんなに浮き沈みの激しい街は他には思いつかない。今は静かな街に戻ったが、これからの本牧は、また何を仕出かすか想像もつかない。そんな本牧の街が興味をそそられるのである。

最後に、このブログで参考にさせて頂いた丹羽和子さんに感謝いたします。丹羽さんは、戦前の記事をまとめた須藤さんの遺志を継ぎ5年間もかけて本牧に関連する記事を探し入力し、自費出版されました。貴重な本牧の情報から「チャブ屋」に関係する記事を選抜して書かせて頂きました。本当にありがとうございます。

参考:「神奈川新聞」に見る昔の本牧・昭和21年から昭和59年まで 自費出版 丹羽和子

チャブ屋の記事:神奈川新聞(戦前)はこちら

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